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蓮乗寺 ~自由と独立を守るために戦った雑賀鉄砲衆~ |和歌山人権スポット

交通機関 南海本線紀ノ川駅下車徒歩約15分

蓮乗寺(現在は元の場所より東へ移転)には「雑賀住平井孫市郎藤原義兼」との名が刻まれた墓石が残されており、「雑賀鉄砲衆・鈴木孫一の墓では」という声もあるが、一族か関係者のものであることは推察できても事実は不明です。ただ、蓮乗寺は、もともと孫一の道場(浄土真宗本願寺派の布教所)であったといわれています。

また、蓮乗寺のある紀ノ川河口部(現在の和歌山市域)は、応仁の乱(1467年~1477年)以降の乱世の中、戦国大名の支配を受けずに100年近くも民衆による自治を維持した類稀な共和国的存在「雑賀惣国」でありました。その運営は「惣」を中心に国人や地侍と連携し、民衆から選出された40人近い「年寄り衆」の合議制によって行われていました。

この「雑賀惣国」を支えていたのは、農業と廻船・交易・市などの商業で得た財力と、当時最強といわれた「雑賀鉄砲衆」でありました。雑賀鉄砲衆は、ポルトガルから種子島に伝わった鉄砲が根来寺(新義真言宗総本山)を経由して雑賀に伝わり、雑賀で独自に生産を行い、さらに近代兵器として戦術も含めて完成させ、当時としては非常に多い数千丁単位の数の鉄砲を保有していたとの記述(「信長公記」など)が残されています。そしてこの雑賀鉄砲衆を率いていたのが「鈴木孫一」でした。

孫一ら雑賀鉄砲衆は、傭兵として全国を転戦し、後に石山本願寺合戦に関わり、10年以上も織田信長と戦い続けました。そしてその後も自由と独立を守るために豊臣秀吉に抵抗し、戦い続けた雑賀の人びとは、1585年に秀吉の太田城水攻めによって終焉を迎えました。 戦後処理にあたった秀吉は、紀伊ノ国を弟・秀長に与えるとともに、和歌山城の築城、有力寺社勢力の解体、刀狩、検地を実行し、その後の徳川政権で成立した身分制の原型が試行されたともいわれています。


写真は蓮乗寺境内にある
「雑賀住平井孫市郎藤原義兼」と名が刻まれた墓石

ここがポイント!

地元「NPOまち」において、人権やまちづくりなどの講話を聴くこともできますので、現地研修としておすすめです。

(2015/07/03)