案内板

人道の港敦賀ムゼウム |人権施設情報

ホームページ http://www.tmo-tsuruga.com/kk-museum/
郵便番号 〒914-0072
住   所 福井県敦賀市金ケ崎町44-1(金ヶ崎緑地内)
電話番号 0770-37-1035
開館時間 午前9時~午後5時
休館日 12月29日から1月3日まで
入館料 展示協力金として100円(高校生以下は無料)
交通機関 JR敦賀駅からコミュニティバス「海岸線」で「金ヶ崎緑地」下車
JR敦賀駅から「ぐるっと敦賀周遊バス 観光ルート」で「金ヶ崎緑地」下車
北陸自動車道敦賀ICから車で約7分
JR敦賀駅からタクシーで約5分

「ムゼウム」とはポーランド語で「資料館」を意味します。
「人道の港敦賀ムゼウム」の前に広がる敦賀港は古来より海と陸の交通の要衝であり1899(明治32)年に開港場(外国貿易港)の指定を受けヨーロッパとの交通の拠点となりました。

その後、1902(明治35)年にウラジオストクとの間に直通航路が開設、1910(明治43)年に駐日ロシア事務所が開庁、1912(明治45)年に新橋駅(東京)・金ヶ崎駅間に欧亜国際連絡列車※が運行されることにより、シベリア鉄道を利用して日本とヨーロッパの各都市を結ぶ拠点港として繁栄しました。
ロシア革命とそれに続く内戦の際、シベリアで救出されたポーランド孤児は日本赤十字社による救済支援によりウラジオストクを経由して敦賀港へ受け入れられました。

彼らの救出は1920(大正9)年から1922(大正11)年にかけて行われました。
さらに、1939(昭和14)年9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、続いてソ連軍が東から攻め込みます。独ソ両国の結んだ不可侵条約の秘密条項で、分割・占領されたポーランドのユダヤ人は寄って立つ地を失くしてしまいました。ユダヤ民族の根絶政策を進めていたナチス・ドイツ軍の進撃によりヨーロッパはふさがれてしまったため、彼らに唯一残された逃避ルートはシベリア経由で日本に渡り、第三国へと向かうことでした。そのためリトアニア・カウナスの日本領事館にビザを求めて大勢の難民となったユダヤ人が押し寄せました。同領事代理杉原千畝が発給した「命のビザ(日本通過ビザ)」を手にしたユダヤ人難民の敦賀港への上陸が1940(昭和15)年9月から始まり、ドイツのソ連侵攻によって欧亜国際連絡列車が途絶える1941(昭和16)年6月まで続きました。
途中、ウラジオストクにおいては外務省本省から現地領事館に乗船を許可しないよう通達が出されていたが総領事代理の根井三郎は「ビザを持つ人の入国を拒否するのは日本帝国の威信にかかわる」として外務省を説得し、日本行の乗船許可証を発給して日本に向かわせました。

一方、在米ユダヤ協会から難民救護の斡旋協力依頼を受けたジャパン・ツーリスト・ビューロー(現JTB)においては、敦賀に臨時の事務所を開設して駐在員・添乗員を派遣しユダヤ人輸送の斡旋にあたりました。この時、ウラジオストク-敦賀間の航路の添乗員であった同社社員・大迫辰雄による証言や当時の写真が残されています。
このようにして上陸したユダヤ人たちの多くは、ユダヤ人組織の「神戸ユダヤ協会」の協力のもと、神戸へと向かいました。

しかし、日本通過ビザで滞在できる日数はわずか10日ほどであり、滞在期間の延長の申出もなかなか認めてもらえませんでした。その窮地を救い彼らが無事にアメリカ、カナダあるいは上海などへと出国できたのは、のちに「命のビザ」をつないだと称される小辻節三の働きによるところが大きかったのでした。

この「人道の港敦賀ムゼウム」では上記のことに関連した展示を行っています。特にユダヤ人難民のコーナーでは、杉原千畝の生の声や難民が残していった時計、生き延びた難民であった方がたが当時を回想する様子、目撃した市民の貴重な証言、「命のビザ(複製)」などを展示しています。中でも、杉原千畝コーナーでは、敦賀に上陸した当時のことを元難民であった方が回想されるビデオを上映しており、敦賀の地を「ヘブン(天国)」と呼び、「(敦賀では)戦争も差別もない…」、「今、日本がなかったら何もない」など当時の絶望の中で見つけた一筋の光であったであろう思いでしみじみと語られる場面を見ることができます。当時の金ケ崎周辺は欧亜国際連絡列車と欧亜国際連絡船との中継地として発展し洋風建築が建ち並ぶ街でした。しかし、終戦直前の空襲によりほとんどが焼失してしまい、唯一「敦賀赤レンガ倉庫」が現存しているとのことです。また、証言に残されている上陸当時にユダヤ人たちがお世話になったという旅館、銭湯、時計店などは、その後移転されたりなどで今は現存していないとのことです。

なお、「観光ボランティアガイドつるが」所属のガイドさんから、上陸当時の様子などを交えた施設・周辺の案内を受けることができます(事前予約要)。

現在「人道の港敦賀ムゼウム」は2022年の北陸新幹線の開業に合わせて敦賀港駅跡地に移転する計画が進んでおり、展示スペースの拡充が図られるとのことです。

以上、ポーランド孤児やユダヤ人難民の受け入れの歴史については、「人道の港敦賀ムゼウム」だけではなく周辺施設からも広く学ぶことができます。例えば、欧亜国際連絡列車の発着駅であった敦賀港駅を再現した「敦賀鉄道資料館」や敦賀の歴史・文化ゆかりの美術品を展示する「敦賀市立博物館」などがあります。
ぜひ、訪れてみることをお勧めします。

※金ケ崎駅(後に敦賀港駅と改称)からウラジオストク直行便の船に連絡し、ウラジオストクからはシベリア鉄道を経由してヨーロッパへと通じており、東京-パリ間をわずか17日間で結んでいました。

敦賀ムゼウム外観

同内観

敦賀鉄道資料館

(2018/05/08)