案内板

圧倒的に清冽な美人画を世に送った ~上村松園~ その1 |人権施設情報

ホームページ https://www.kintetsu-g-hd.co.jp/culture/shohaku/
郵便番号 〒631-0004
住   所 奈良市登美ヶ丘2丁目1番4号
電話番号 0742-41-6666(FAX 0742-41-6886)
開館時間 10時〜17時(入館は16時まで)
休館日 月曜日(祝日となるときは、次の平日)、年末年始、展示替期間、その他必要のある場合
入館料 大人(高校生・大学生を含む)820円                                                        小学生・中学生410円                                                               ※特別展の場合                                                                  大人(高校生・大学生を含む)1,030円                                                       小学生・中学生510円

《団体割引》20名以上は団体割引(1割引)                                                     障がい者手帳のご提示によりご本人と同伴者1名(2割引)                                               ※消費税の引き上げにより料金が変更される場合があります
交通機関 近鉄奈良線〈学園前駅〉北口バスターミナル5・6番のりば                                               よりバスで約5分 〈大渕橋(松伯美術館前)〉下車、                                                 大渕橋を渡った右側
駐車場 駐車台数に限りがあるため、できるだけ「電車・バス・タクシー」でお越しください
概 要
<松伯美術館>展覧会案内(詳しくは松伯美術館ホームページにて)

■下絵と素描から知る上村松園  ~絵師としての気概~
開催中 ~ 2019年10月6日(日)

■特別展 開館25周年記念                                                             上村松園・上村松篁「日本画の心」展 ~真善美を求めて~                                              2019年10月26日(土)~ 11月24日(日)

帝国芸術院会員になった頃   昭和16年頃(松伯美術館提供)

はじめに

今回、紹介する上村松園(うえむらしょうえん)は、明治から大正、昭和を「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵」「真・善・美の極に達した本格的な美人画」を念願として「女性」を描き続けた女性の日本画家だ。

筆者の手元に、松園が書き綴った随筆集「青眉抄(せいびしょう)・青眉抄その後」がある。参考・引用させていただきながら、彼女の生涯と芸術活動をお伝えしたい。

生い立ち

上村松園、本名、津禰(つね)は1875(明治8)年に京都繁華街の「葉茶屋」、「ちきり屋」の次女として生まれた。
「葉茶屋」とは言葉通り、茶の葉を小売りする店をさすが、路傍で湯茶を供して人を休息させた「水茶屋」と区別するためだ。名は、本文では「松園」で通そう。
蛇足だが、以前このシリーズで取り上げた樋口一葉は明治5年の生まれだから、同世代といって良いだろう。一葉の紹介記事の筆を執った筆者が、夭折した彼女に特段の思い入れを持っていることをお伝えしたいのだ。

松園が生まれた時、既に父は他界していて「母の胎内にあって、父を見送っていたのだ」といっている。
祖父は「天保の乱」を引き起こした大塩平八郎ときわめて近しい人で、事件後、お上の詮議が厳しく、このことをひた隠しにしたと伝わっている。
幼いころから、絵草紙になじみ、絵を描きつづけていたという彼女は「中でも人物画が好きで、人物ばかり描いていた」。
母、仲子はしっかり者だったが、松園が欲しがる絵本などは惜しげもなく買い与えてくれた。
小学校に上がって、休み時間になっても皆で遊ぶというよりは、運動場の片隅で、一人で絵ばかり描いていた。
5、6年のころに図画の時間ができて、松園の本領発揮、先生に認められ、さらに絵画の世界へ入り込んでいったようだ。

小学校を卒業するころに、絵を描いて身を立てようとは思っていなかったようだし、明治初年頃の世の風潮は、女性は家事をよくし、嫁に行き、子らを守るものであって、画家をめざすなどとんでもないことだった。
既に設立されていた京都府立画学校に進むことを母は快く認め、松園は「泣かんばかりに感謝した」といっている。

絵画の世界へ

画学校で鈴木松年(すずきしょうねん)という大家の画家につき「人物を描きたいのはもっともであるが、学校の規則は曲げられぬから、それほど人物が描きたければ自分の塾へ学校の帰りに寄るとよい。参考も貸したり絵も見てあげるから」と勧められて大喜び。
その後、学校でごたごた騒ぎが持ち上がり、松年は退職してしまったので、松園も学校を辞し、彼の塾へ通うようになった。

明治23年、15歳の松園は、東京で開かれた第3回勧業博覧会に「四季美人図」を初めて出品した。
春夏秋冬にそれぞれ、女性を配した絵画で、一等褒状を授与されただけでなく、来日中だった英国、ヴィクトリア女王の皇子、コンノート公の目に留まり、買い上げを求められた。
新聞にも大きく取り上げられ、松園は一躍、時の人となるとともに、画家として世に認められることとなったのだった。

それでも彼女は「本当に、絵で一生立とうと考えたのはこの後で、20歳か、21歳のときでありました。それからは、花が咲こうと、月が出ようと、絵の事ばかり考えておりました」そして「母は一人で店を経営し、夜は遅くまで裁縫などしながら、私の画業をはげましてくれました」と書いている。

終日、絵画の勉強を怠らなかった彼女は、各地の展覧会、博覧会で高い評価を受け続けた。
が、画壇はやはり男性主力の世界、名声が上がればそれだけ、男性画家たちから、激しい嫉妬と憎しみを受けたようだ。
しかし、松園は、鋼のような精神力の持ち主だった。

後に男の子を生む。
父親は最初の師匠、鈴木松年だろうといわれているが、彼には家庭があったから、彼女は何も語らず、未婚の母の道を選んだ。
随筆の中でも一言も語られていない。
どれほど周囲から白い目で見られようが、松園は毅然としてそれを受け入れたのだ。
ちなみにこの子、本名 信太郎、上村松篁(うえむらしょうこう)は長じて画家となり、文化勲章も受賞している。松篁の子、松園の孫、上村淳之(うえむらあつし)も画家だ。

その後の活躍

国内だけでなく、海外の展覧会、博覧会への出展も続くが、松園とて生身の女性だ。
40歳を過ぎた折、幾らか年下の男性に激しい恋をして、それを失ったと伝わっている。
芸術家の情念とは、どれほどなのか、筆者のごとき凡人には計り知れないが、激しいもののようで、失意の松園が描いた絵画はそれまでの彼女の作品とは明らかに異なっていた。
「源氏物語」で、源氏の愛人、六条御息所は、自分に冷めてゆく男の正妻、葵上に嫉妬して、生霊となって、彼女を取り殺してしまう。
これを題材にした「焔(ほのお)」は、何とも凄まじい画だ。
筆者には素晴らしい絵画にみえるが、「なぜこのような凄絶な作品を描いたのか自分でもわからない」と本人は語っている。確かに、松園の生涯でたった一枚、異様な絵画とはいえよう。

この後、どれほど落ち込んでいたのか、彼女は以後3年間、絵筆を執らなかった。
それから20年後の1936(昭和11)年、代表作といわれる「序の舞」を完成させる。
作品について、彼女はこう語っている。少し長くなるが紹介しておこう。

上村松園「序の舞(下絵)」昭和11(1936)年     (松伯美術館蔵)

「品の良い令嬢の舞い姿を描きたいものと思って描き上げたものでございます。仕舞のもつ、古典的で優美で端然とした心持を表したいと思ったのでございます。そこで嫁を、京都で一番品のよい島田を結う人のところへやりまして、文金高島田を結ってもらいました。そして婚礼の時の振袖を着てもらい、いろいろな仕舞の形をさせ、スケッチいたしました。-中略-いよいよ令嬢で形は序の舞のあの形と定まりましたが、扇子を持つ手一つでも、いろいろと苦心いたします。子供から女中まで家中の女に同じように扇子をもたせてみてスケッチしてみますと、どれもこれも多少異なった形をしております。その中で一番よい手の形をとり、それを私の理想の手に描き直しました。すべて、写生の上にでて、美しく芸術化するのです」と。

陰に陽に彼女を支え続けてくれた母、仲子が亡くなった2年後に描かれている。
母について「母のおかげで、生活の苦労を感じずに絵を生命の杖ともして、それと戦えたのであった。私を生んだ母は、私の芸術までも生んでくれたのである」と偲んでいる。

こうした出展をするためだけでなく、高貴な方から依頼を受けて描くことも多くあった。
大正天皇の皇后からの求めを受けてから21年後の1937(昭和12)年、「作を携えて、先般御所に参候いたしまし、滞りなくお納め申し上げましてございます」。
この時、皇后は皇太后になっていらっしゃった。
作品は「雪月花図(せつげつかず)」、「外の俗塵とは絶縁して、毎日朝から夕景まで、専心専念、ご下命画の筆をとりました。画室内には一匹の蠅も蚊も飛ばず、絵の具皿の上には一点の塵もとどめませんのみならず、精神も清らかで、一点心を遮る何物もありません。こうして私は『雪月花』をやっと完成いたすことができました。まことに『雪月花図』こそは、乏しい私の一代の画業中に、一つの頂点を作り出した努力作であることを、断言いたし得るのを幸いに思います」と述懐している。

(次回につづく)

(2019/08/08)