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激動の時代を一途に生きて 新島 八重 その1 |シリーズ

はじめに

絵画や詩歌など、ある分野で特別な才能を発揮したとか、歴史のひとコマに鮮やかに輝いたというわけでなく、言ってみれば市井に地道に生きた一人の女性を今回は紹介する。
ただ、彼女の生きた時代は幕末から明治の激動期だった。
そして夫としたのが当時ではまったく珍しいキリスト教の宣教師であり、新生日本に有用な人びとを教育する場を作ろうと情熱に燃える男だったのが、彼女の半生をある方向へ誘ったのだろうか。
まず夫、新島 襄についてから筆を進めよう。

夫、新島 襄とは

新島襄肖像1880年
同志社大学からの提供

「同志社大学」の創立者として知られる新島襄は1843年、安中藩士の長男として江戸の藩邸に生まれた。手に入れた書物から米国の社会や政治制度に興味を持っていた聡明な彼は、幕府の海軍教授所で洋学を学ぶうち、和訳されたロビンソン漂流記や米国人宣教師が漢訳した聖書に接して米国渡航の願望を募らせていった。
意を決し、開港地、函館で密航の機会をうかがった21歳の新島は1864年ついに米国へと旅立つ。
雑役水夫の労役に服して約1年、念願の地を踏んだ彼を思いがけない、心温かい人との出会いが待っていた。
彼を上海から米国へと運んだワイルド・ローヴァー号の船主、アルフュース・ハーディーは、新島の稚拙な英文ながら真情溢れる作文に接し、真摯な向学心と誠実な人柄を読み取って、全面的支援を決心したのだった。
ハーディー家に引き取られ身元保証と経済的援助を約束された彼はアンドーヴァーのフィリップス・アカデミーで学び、1年後にはキリスト教の洗礼も受けた。
さらにアマースト大学で理学を学び、日本人として初の学位を得た新島は続いて神学校に進み、牧師の道をめざしたのだった。
明治に入って、就任した初代駐米公使のあっせんで、国からの正式な留学生に遇されることとなった。
新しい国家の諸制度、法律を欧米各国から学び取ることを目的に渡米中だった「岩倉使節団」の一員、文部理事官・田中不二麿との出会いはさらなる幸運を新島にもたらした。
田中にその語学力を評価されて同行を求められ、欧州各国の教育の制度と現場も目のあたりにすることができたのだった。

「同志社」の設立

役目を終えて米国に戻り、神学校を卒業した新島はキリスト教の海外伝道機関で帰国の挨拶をする。
日本でのキリスト教精神に基づく学校創設の必要性を切々と訴えたのだ。
結果、多額の寄付金の約束を取り付け得た新島は夢と希望に胸を膨らませ、10年ぶりの日本へ向かった。
江戸で生まれ育った彼が京都に学校を開いたのには理由があった。
そのひとつ、学校の建学には、新島の同僚でもあり、当時関西に多く居留して布教に当たっていた米国人宣教帥たちの協力が必要だったこと。
もうひとつ、京都府の顧問格にあった山本覚馬との知己を得、協力を得られたこと。が、時代はまだまだ閉鎖的でキリスト教への理解や寛容には程遠かったし、新国家の精神的背景は「尊王思想」に裏打ちされた「日本神道」でしかありえなかった。
まして京都は神社、仏閣の街「廃仏毀釈」の時代でもあったのだ。
危うい「同志社英学校」の船出であったことは理解しておく必要がありそうだ。

クラーク記念館(重要文化財)
  同志社大学からの提供

(2013/01/21)