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文明開化と食肉文化(2) |シリーズ

「『薬食』という発想」

江戸時代の料理本に載った獣肉類は数多くあるわけですが、そもそも古代の天武朝に出された「肉食禁止令」は、牛・馬・犬・猿・鶏の5種類を食することを禁止したまでで、そのほかの獣についてはとくに断りがなかったので、当然といえば当然でした。

その成り行きで、牛などもわずかに食されていたようで、1712年刊行の寺島良安編「和漢三才図会」は「牛」についても「今では世間で日用の食べ物となっていて、禁じることはできない」と記されています。

一方、表向きは、獣の肉を食する場合、隠語であらわしてみたり(猪を「ぼたん」、鹿を「もみじ」など)、「薬食」と称してあくまでも治療や養生のために獣肉を食するという姿勢は崩さなかったようです。

寺門静軒は、天保期に発禁処分にまでなった「江戸繁昌記」で「山鯨(「やまくじら」=猪肉の隠語)」という項目をたてて、「およそ肉はねぎによい・・・ひばちを連ねて調理を提供している」と具体的な食べ方まで記しています。

「文明開化と肉食」

タテマエとして禁止されてきた肉食が公に「解禁」となったのは、天皇が豚や鹿、兎の肉を食べた翌年の1872(明治5)年のことでした。

このころから巷には、牛肉を中心とした料理や牛鍋店の情報があふれるようになります。
誰もが大手を振って、文明開化の象徴である肉料理を喧伝し、舌鼓を打ち、その善し悪しを論じることができるようになったのです。

著名な仮名垣魯文(かながぎろぶん)による「安愚楽鍋」(1871(明治4)年刊行)には、18・19歳の女性から50歳過ぎの医者まで幅広い年齢層の客が描かれ、その職業も、人力車夫、職人、落語家、役者、武士、文士と多彩です。
調理法はとくに定まっておらず、味付け、煮方、焼き方は注文に合わせて調理するとあります。

また、かの福沢諭吉も「福翁自伝」(1899(明治32)年刊行)のなかで、「まず度々行くのは鶏肉屋で、それよりもっと便利なのは牛肉屋だ。
その時分、大阪中で牛鍋を喰はせる処は、唯二軒ある」だけだったけれど、客層は自分たち緒方塾の書生を含めて「下等」なので、「牛は随分硬くて臭かった」と回想しています。

(2015/10/01)