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~打倒鎌倉の名将か、はたまた~ 新田義貞 その2 |シリーズ

湊川の戦い以降

尊氏大軍団接近の報せに朝廷は慌てる。やや余談だが、南北朝の内乱を記した歴史書には、太平記より20年ほど早くに成った「梅松論」もある。足利寄りの叙述が多いとされるが、それによれば、尊氏が九州に落ちる前、楠木正成は「新田を見限って足利を召し返せ」と献言した。敗軍の将、尊氏に従う武将の余りの多さに、帝は既に武士たちから見放されているから、そこが和平の落としどころと。周囲の嘲弄を浴びて引き下がったというが、真偽は不明、太平記にその記述はない。
さて、この事態に義貞と合流し足利を討てと命じられた正成は帝に対し「播磨で小さな勝利すら得られぬ、敗軍ともいうべき味方が、このたびの大軍を支えきれはしない。むしろ義貞を召還し、帝は比叡山に臨幸されるべし。足利軍が入京の後、淀川尻を私が押さえて兵糧の供給を絶ち、新田軍と挟撃すれば道は開けようか」と献策する。しかし、またもの都落ちを厭う宮廷から退けられてしまった。決起以降、寡兵ながら奇抜な作戦と機動力で、大勝せぬまでも負けずに帝を支えてきたがここに至ってできることはさらにない、正成は死を覚悟した。500騎ほどを率いて兵庫に着いた彼は義貞と会談している、太平記第16巻から引こう。宮中でのやり取りを正成から聞いた義貞は言う「昨年、関東で敗れて京へ帰った時、人びとから散々嘲られ、今回も西国で城の一つも落とすことができなかった。今、足利が恐ろしい大軍だからといって退却するわけにはいかない」と、続けて原文は「ただ一戦に義を勧めばやと存ずるばかりなり」義貞の心情を深く忖度(そんたく)する正成は「多くの愚か者が述べる意見より賢者の一言が勝ります。道理を知らぬ人びとの誹りをお気に懸けられることはありません。戦うべき所を見て進み、叶うまじき時を知って退くこそ良将」そして「北条の猛威を素早く砕き、この春、尊氏を九州へと追ったのは、偏にあなたのご計略の武徳によるものだから、今回も戦の方法を誰が侮りましょうか」と慰めた。義貞はこれに喜び、夜更けまで盃を交わして語り合った、と結んでいる。正成は義貞の本隊に加わらず、湊川に孤軍奮闘して果てた。尊氏軍10万に対し、新田側は多く見積もっても2万を欠いていた。義貞の敗軍とともに帝は坂本へ落ち、都に留まった光厳上皇を奉じて東寺に入った尊氏は以降、ここを拠点に帝、義貞と対峙する。1336年5月だった。

晩年の義貞

6月に入ると直義が中心となって京の足利支配は決定的になった。義貞は周辺寺院の僧兵たちも促して善戦するが、抵抗は次第に局地的となり、近江でも足利の圧力は強まっていった。帝の周辺には厭戦気分が高まり、尊氏は密かに和平工作を進める。帝が京へ還幸の暁には供奉する諸卿、降参の意を表する者には官職、所領を復活し、政権を公家に返還すると約した。義貞に何を知らせるもなく和平案受け入れを決められた帝が比叡山を下ろうとしたとき、新田一族の堀口貞光は帝の車に取りすがって怒りを爆発させた。「鎌倉滅亡以降、一族郎党123名、従う兵8000の死者を出しながらの忠節をどう考えるのか。これだけ尽くしながらも足利の勢いが盛んなのは天皇の徳の不足ではないか。新田を見捨てて京へというなら、残る一族50人、すべての首を刎ねてから行かれよ」と。立ち往生する帝の元へ、義貞が3千の兵を率いて到着した。太平記によれば彼は「その気色怒れる心ありといえども、しかも礼儀みだりならず」と。帝は和睦が時節を待つ方便で、事前に相談しなかったのは秘密が漏れるのを防ぐためと場を繕い、義貞は東宮、恒良と尊良親王を推戴して越前に下向することを承認させて袂を分かったのだった。しかし足利軍は彼を急追、街道は守護の斯波氏が塞ぐとの報に、木の芽峠を越えたが、時節外れの風雪に多くの犠牲者を出し、なんとか敦賀へ。しかし、入った金ヶ崎城も攻められ、親王の一人は死に、一人は捕えられ、義貞は落城直前かろうじて脱出、九頭竜川の東、杣山(そまやま)城へと落ちる。一方、京の帝は足利の監視下に置かれて8月、北朝となる光明天皇に三種の神器が移され、皇太子には後醍醐帝の皇子、成良親王が立てられた。つまり北朝天皇と足利政権が合法と認められ、幕府の基礎がなったのだ。が、12月旧帝は楠木残党の手引きで脱出、吉野に逃れ以後、南北朝対立の時代に入る。

義貞の最期

1337年8月、南朝方に朗報がもたらされた。陸奥の北畠顕家が義良親王を奉じた大軍で再度攻め上ってきたのだ。利根川を越えて足利傘下の上杉軍を破り、さらに兵を進める。これに旧帝は意気衝天、反足利勢力の決起、上洛を強く促した。各地の豪族を次々引き入れた北畠軍は鎌倉を落とし、美濃でも足利連合軍に大勝。危機感を募らせた幕府は必死の防御態勢を敷いた。杣山で力をつけた義貞は各所で斯波軍を破り、越前国府も陥れていた。ここで顕家が、新田と合流して近江へ進めば、歴史はどう変わっていたのだろうか。一説に、貴族育ちの彼は義貞を嫌ったと言われ、義貞は北国での勢力をもう少し固めたかったのだともいう。顕家は進路を変え伊勢、奈良から京をめざしたが、和泉の堺浦で大敗を喫し、彼は戦死してしまう。義貞は斯波氏をさらに攻め、その居城を次々に落としていたが、不幸はさなかに起きた。藤島城攻めへの督戦に50騎ほどで出た彼は、寄せ手を追い払おうと向かっていた敵の300騎と遭遇、深い田に追い落とされ、乱射された矢に当たった。1338年7月、あっけない最期だった。享年38とも39ともいう。

おわりに

義貞の最期に太平記、第20巻は「此の人、君の股肱(ここう)として、武将の位に備わりしかば、身を慎み命を全うしてこそ、大儀の功を致さるべかりしに、自らさしもなき戦場に赴いて、匹夫の鏑(やじり)に命を止めし事、運の極めとは云いながら、うたてかりし事共也」と冷ややかだ。「うたてかりし」とは情けないほどの意。しかし、あまりに哀れと思ったのだろう、続けて都に晒された首に、泣き悲しむ人びとを登場させた。そして美しい匂当内侍が妻となったいきさつ記し、二人の情愛を語り、彼女の悲しみを描いて、髪を下し嵯峨野の奥に義貞の菩提を弔った、と紙数を費やしている。
彼は勝算あって決起したのではなかろう。討てと命じられた敵軍の前に踵を返し、幕府からの徴税吏を斬り捨てもしていたから、義貞は厳しい処罰の免れ得ない立場に自らを追い込み、一族の後押しを得て兵を挙げた。しかし、京の帝とその側近たちにとって鎌倉はまだ遠く、彼らが、目前の敵、六波羅を倒した尊氏により頼もしさを抱いたのは当然だったかもしれない。そして両者を秤にかける諸国の豪族からすれば、足利は、より大樹だった。ましてや、早くに征夷大将軍の位を欲した尊氏に比し、義貞は幕府を滅亡させたものの、何らかの以後の政治的青写真を持っていたと、とても考えられない。常に初心を守り、義貞は後醍醐帝の忠実な侍大将であり続けようとしただけでないのか。討幕の兵を挙げて以後一度も故国の土を踏まなかった彼は、越前の地に不本意な最期を迎えた。が、筆者には映画「ラストサムライ」でトム・クルーズの帝への言葉「どう死んだかでなく、どう生きたかをお忘れなく」が脳裏にうかぶ。愚直と言われようが生一本、戦いに戦った新田義貞の生涯に、さわやかさを感じるのだが、皆さまはいかがだろう。

JR分倍河原駅前に建つ
「新田義貞の像」(東京都・府中市)

鎌倉幕府滅亡後に敵方である北条氏の戦死者を供養するために義貞が建立した「九品寺」本堂(鎌倉市)

(2016/01/20)