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闘いの日々(1) |シリーズ

パワフルマン

西光万吉
松本治一郎
阪本清一郎
平野小剣

上に挙げた名前は、部落問題を少しでも学んだことのある人なら一度は聞いたことがあるはず…の人たちですね。

ここでもう一人、上の先人たちより少し遅れて活躍した朝田善之助をご紹介します。
朝田は1902(明治35)年に京都の部落で生まれます。
そして地元の京都を拠点として活動をはじめ、やがて、全国にも活動領域を広げ、全国水平社創立大会にも参加、部落解放運動を牽引し、戦前のみならず戦後もさまざまな運動や組織に積極的に参画するなど、その生涯をかけ、差別の解消、社会矛盾の解消に取り組みました。

そして、戦後の部落差別解消運動に大きな影響を与えた人でもあります。

戦前、治安維持法下で多くの人が検挙されるということが起きます。朝田も同様でした。でも、そんなことにも負けず、釈放後も活動を続けます。再度検挙され、拷問を受けたりしますが、それに耐えたばかりか、なんとスキをみて逃走・潜伏するなど、まるで映画にでもなりそうな行動をとっていました。でも潜伏しているわりに全国水平社の大会に姿を現してまた逮捕されます。

その後も何度か逮捕されたりするわけですが、思想統制・言論統制が厳しかった戦前においてもそんなことはお構いなしで活動を続けるほど熱心に情熱的に部落差別解消に向けて活動し続けました。

神出鬼没

朝田は戦前、繰り返し検挙や拷問をされたため一時は命の危機にまでさらされますが、復活します。そして1931(昭和6)年の全国水平社の大会では、なんと全国水平社そのものを解消することを提案します。組織の大会で組織そのものをなくす提案をしたのですから、それを聞いた人たちはドギモを抜かれたでしょう。ただし、潰すだけじゃなく、次のステージのこともちゃんと考えてはいました。

朝田は一方で、地元・京都の市会議員や府会議員に立候補しますがどちらも落選してしまいます。その後の1938(昭和13)年~1946(昭和21)年には、京都市役所で勤務していたこともあります。具体的には、市役所社会課で「不良住宅地区改良事業計画」に携わっていました。でも、戦争の激化で社会事業予算が大幅に削減され、事業も中断せざるを得なくなりました。

なんにしても、どこにでも現れていろんなことをやる人です。でもこれら一連の行動は、戦後の朝田の行動から考えると一貫性はあります。この京都市役所勤務時代、朝田はいろいろな人に部落問題の重要性を説いてまわりました。そして、その人たちは戦後、市役所で同和行政の幹部として活躍することになります。

まさに、その行動こそが京都だけでなく、全国を牽引する活動手法の礎になったと言ってもいいかもしれません。その活動手法とは「行政闘争」と呼ばれるもので、戦後の運動の中心となる手法です。

(2016/11/01)