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闘いの日々(2) |よくわかる人権講座

先駆け

1945(昭和20)年の敗戦以降、日本中が復興に向けて動き出すなか、農業や手工業が多かった部落は取り残されていきます。例えば、朝田の出身地である京都市内の部落では、不良住宅が多く密集していて、下水道が通っているところはほとんどありませんでした。

このような状況から、部落解放全国委員会では、「部落の人びとの完全な解放は、単なる制度上の差別をなくすことだけではなく、悲惨な状況から抜け出すものでなければならない」と考えられました。そして、日本国憲法第25条にある「すべて国民は、最低限度の生活を営む権利を有する」という社会権のひとつである生存権を獲得することが運動の基本任務とされるようになったのです。

その運動の基本任務を、京都で「行政闘争」という形で実践していったのが他ならぬ朝田でした。

朝田は「部落の狭い道路、劣悪な住環境は行政の責任が大きい」として、地方行政にその改善を訴えていきます。そしてこの時に、以前に市役所勤務を経ていたことが活き、行政にその重要性を認識させ、改善を実行させることにつながります。

これら京都での成果が、関西、西日本へと波及し、部落解放運動は大衆運動として大きな広がりをみせました。それが、部落問題の解決を明記した1965(昭和40)年の「同和対策審議会答申」、1969(昭和44)年の「同和対策事業特別措置法」へとつながっていったのです。

それ以降、大衆運動は環境改善要求、同和対策は事業施策が中心となっていきます。

当時「部落の住環境改善が部落問題の解決にとって重要である」という認識が、政府、自治体、運動側のそれぞれにあったことの表れといえるでしょう。
ではその中でも、朝田が考えたこと、その後の運動体に影響を与えた思想とは、どのようなものだったのでしょうか?

正と負

戦後復興のなかで取り残された部落の住環境を改善するために展開された「行政闘争」にきっかけを与えたのは朝田の考えでした。

朝田の唱えた理論を一言で言うと、「日常、部落に生起する問題で、部落民や部落にとって不利益な問題は、一切差別である」というものでした。

1922(大正11)年、部落の大衆自身の手で差別に立ち向かおうと全国水平社が創立されます。これを機に各地で地域水平社が創立され、日々、地域内で繰り返される差別的言動に立ち向かうようになりました。

これら当初の運動は、個人の言動や意識に対抗するものでした。しかし、運動を進める中で、それを生み出している社会にこそ問題があるという考えが芽生え始めます。

そこで、部落改善事業などが進められました。朝田も京都市役所時代に携わっていたものですが、部落全体の生活改善には結びつきませんでした。しかも、戦況の悪化で国全体がそれどころではなくなります。

戦後の復興期を迎えて、部落の内と外の環境差が一段と大きくなります。
そのことが差別の一因になっていて、その改善が必要だとの認識も同時に広まります。しかし、戦前のように与えられるのを待っているのではなく、自分たちの手で勝ち取らなければならない、と考えました。

「そう考えてたたかわないかぎり、どんな小さな要求も実現できない」つまり部落の大衆自身の「ケツをたたく」という意味が込められているような気がします。それが大衆にエネルギーを与えたからこそ、京都の行政闘争を盛り上げ、その成功が、関西、西日本へと波及していったのです。
朝田の考えは、戦後~高度成長期の部落大衆運動にとって動力源であったといえるでしょう。

「が、しかし」。

朝田の言葉はやがて、運動側にとって都合のいい伝家の宝刀と化し、行政側にとっては金縛りの呪文になってしまいました。
それが2002(平成14)年3月に「同和対策事業特別措置法」の完全失効したのち、相次いで発覚した、運動団体の不正という形で表れました。

このように朝田の考えは、良くも悪くも運動体に多大な影響を与えました。

 

 

(2016/11/24)