シリーズ

「平家物語」を彩る二人の女性 小督の局と建礼門院徳子(その1) |シリーズ

はじめに

平家物語」は決して難解な書物ではない。
異本の類は多いが、怪談「耳なし芳一(ほういち)」にみられるように、盲人の僧が日々の糧を得るため、辻芸で琵琶を弾きつつ語って聞かせた大衆娯楽でもあったからだ。 そして私たちは「平家物語」を中学、高校で「日本文学の中心に位置している書物」と教わる。その理由は漢文の読み下し調と源氏物語のごとき和語の「和漢混交」の文で綴られ、以降の「書き言葉」の原型となったからだ。例えば人と人との情実を語るには「和文」を、戦いの場面を描写するには「漢文調」をと、巧みに使い分けて平家一門の盛衰を語っている。
明治に入って「言文一致」は進むが今、このように書いている文章でも「日本語を生まれながらの言語」とする私たちは紛れもなく、その内容で「和漢」の語を使い分けている。

今回はこの物語から、二人の女性、小督(こごう)の局と建礼門院(けんれいもんいん)徳子を紹介しよう。

小督の局と建礼門院徳子の関係

本文に入る前に、この二人の女性の関係を整理しよう。

小督の局は平安末期の「平治の乱」で殺された藤原(信西)の孫にあたる。類稀(たぐいまれ)な美貌のうえに、箏(そう:琴に似ている楽器で奈良時代に唐より伝わり雅楽の中で用いられた)の名手であったと伝えられている。

彼女は最初に、藤原(冷泉)隆房の愛人となる。藤原(冷泉)隆房は、平安末の公卿で、政界や歌人としても存在感を発揮していた人物である。だが、彼の正室(身分の高い人の本妻)は平清盛の娘(五女)だった。さらにその後、小督の局は、時の帝であった高倉天皇に見初められ寵姫となる。が、あろうことか、その高倉天皇の中宮(天皇の后(きさき)・皇后・正室)は平清盛の三女、徳子(後の建礼門院)だった。徳子の父の清盛からみれば、五女に引き続き三女までも、しかもその三女徳子の婿は、将来、天皇の座に自分の孫を、と嫁がせた帝だった。

この時はまだ、徳子には皇子(将来の安徳帝1178(治承2)年生)は生まれていなかった。清盛の逆鱗に触れた、小督の局は1177(治承元)年12月に高倉天皇の皇女を出産した後、清閑寺にて出家させられる。・・・
・・・と、ここまで二人の関係をざっくりと掴んだうえで、本文の前段、小督の局の章に進もう。

小督の局

「奥の細道」の旅を岐阜、大垣で終えた芭蕉は、続いて伊勢から故郷伊賀上野に向かい、翌々年まで近江、京、伊賀を転々としながら関西在住門人たちの指導にあたった。その間の半月ほどを小倉山の麓「落柿舎(らくししゃ)」に過ごして書き綴ったのが「嵯峨日記」だ。到着の翌日、大堰川(おおいがわ=桂川)沿いの「臨川寺」(現在は参詣できない)から「小督の局」の墓を訪ね「うきふしや 竹の子となる 人の果て」の句を成して偲んでいる。

その小督の局とはいかなる女性だったのかということから話を進めよう。
「富士川の合戦」の敗退、東大寺、興福寺の無惨な焼き討ちに終わった前巻から「平家物語」第6巻は幼い安徳天皇の父君、高倉上皇の崩御へと続く。そして生前の高倉帝と箏の名手、眉目麗しい小督の局とのいきさつを語る。帝が愛された彼女は以前、藤原(冷泉)隆房の愛人で、彼の正室は清盛の娘だった。今また娘の中宮、徳子を差し置くかたちの小督を「二人の婿を取られた」と清盛は憎む。それを聞き知った小督の局は帝に累が及んではと、ひとりそっと宮中を去った。

帝の嘆きは激しく、ある月の明るい夜、宿直(とのい)の源仲国を召して小督の局を探し秘密裏に宮中に戻すよう命じる。
仲国は馬を賜って嵯峨野に向かったもののそれらしきは見当たらず、途方にくれる。
そして、わずかな望みを託し、小督の局へ届けと得意の笛を吹く。やがて彼の耳に答えるかのようなかすかな箏の音が・・・。もしやと近づけば、まさしく小督の局の箏、曲は夫を恋し、想う「想夫恋(そうふれん)」だった。
そこまでの情けならば、と帝のかたわらに戻りひっそり寄り添い過ごして姫君を授かるが、やがて清盛の知るところとなり尼とされた小督の局は、今度こそ嵯峨野の奥へと追放されてしまった。

この仕打ちに帝はいっそう悩みを深くされ、ついに崩御されたというのだ。さらに、この仕打ちを行った清盛もまた一年後、熱病に倒れ他界する。徳子が後の安徳帝を出産するのは崩御の3年前で、清盛の怒りが記述の通りだったか、孫誕生への心配だったか、物語は触れていない。

これは、多くが「能」の題材に採られた平家物語の挿話のひとつで「峯の嵐か松風か、尋ぬる人の琴の音か、駒引き止めて聞くほどに、爪音しるき 想夫恋」と謡曲に唄われている。

祇園精舎の鐘(寂光院)

「渡月橋」のほとり「小督の局の塚」

(2017/03/09)