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「平家物語」を彩る二人の女性 小督の局と建礼門院徳子(その2) |シリーズ

平家の没落と建礼門院(けんれいもんいん)徳子

物語は続く
木曾で平家討伐の兵を起こした源義仲が、鮮やかな戦の連続で北陸から一気に京へ攻め上ってきた。

その勢いに比叡山、延暦寺もなびけば、総帥、清盛を病で失ったばかりの平家一門の「都落ち」はやむを得なかった。
この状況を察知した安徳天皇の祖父、老獪な後白河法皇はわが身まで平家に取り込まれてはと鞍馬山に身を隠す。

再起を図った九州では思わぬ手強い抵抗を受けたが、山口、長門国で大船を入手し、やがて四国勢に迎えられた平家一族は讃岐国、屋島に仮御所を構えた。

一方、京へ入り「朝日将軍」の名まで戴いた義仲だが、ここからの彼の行動はそれまでが嘘のように精彩に欠ける。
屋島を攻めては返り討ちを喫し、戦陣を立て直せば味方裏切りの報せ。急ぎ立ち返った京で、苛立ちの果てに法皇の御所、「法住寺殿(ほうじゅうじどの)」を焼き払ったことが義仲の致命傷となった。

法皇からの密かな要請を受け、鎌倉の源頼朝は弟、範頼(のりより)・義経に兵を預け、義仲追討を命じる。
迎え撃つ義仲は、あの戦上手がどうしたことか後手を踏み続け、その体たらくに多くの兵が離反し、頼みの綱の法皇を義経に保護されては万策尽きた。敗走する中、近江国、粟津で亡くなった義仲の墓は、大津の「義仲寺(ぎちゅうじ)」にある。
余談だが、義仲をこよなく愛した芭蕉はずっと後に大阪「南御堂」近くで没するが、遺言によってここに並んで葬られている。

追いつめられる平家一門

敵の仲間争いの間に力を増し、現在の神戸付近まで拠点を進めた平家勢に、兵を整え直した新参の源氏軍が立ち向かう。
「一ノ谷(いちのたに)合戦」の始まりだ。
西へ、街道を進む本隊からわずかな兵を率いて分かれ、丹波篠山から山道を播磨に進んだ義経は背後からの襲撃を企てた。「鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)」など、この戦の場所については諸説多いが、物語は面白いに限る。
須磨近く、崖上に出た義経は近在の猟師から「鹿は通る」と聞かされるや「その道を馬が行けないわけはない」と一気に駆け下りたのだ。戦いのたけなわ、背後の本拠を急襲された平家軍は総崩れとなって屋島へ退いた。

屋島へ向かう軍船を整えた源氏の若き大将義経は、追い風とはいえ嵐のような高浪に、尻込みする船頭たちを叱咤して漕ぎ出させる。このような荒海を渡ってこそ、油断している敵から大勝を博せようと。天才指揮官か、はた猪武者(いのししむしゃ)か、しかし作戦はみごとに図星、平家勢は多勢の急襲と見誤って御所に火を掛け海へ逃れる他はなかった。
世に言う「屋島の合戦」だ。

最後の拠点、下関の彦島へ落ちた一門に、もう希望は残されていなかった。遅れて到着した本隊とともに源氏総勢が船出すれば、日和見する豪族たちも続々と従った。

1185(文治元)年3月、最後の戦いが始まる。
赤間の沖、壇ノ浦の潮の流れは早い。緒戦こそ下手の源氏と互角に渡り合った海戦巧者の平家軍も流れが変わり、裏切りが続出しては為す術もなかった。

建礼門院 徳子

野望に満ち、太政大臣にまで登り詰めた父、清盛と北の方、時子の間に、天皇の后に上がるべく宿命を負って生まれた徳子は、17歳で高倉帝の中宮に、22歳で産んだ子が3歳で安徳天皇に即位し、天皇の母として「建礼門院」の院号を授かる。
しかし、その2年後に京を追われてからは船上と仮御所の侘び住まいを続けた。

戦に敗れ「もはやこれまで」との兄の声に、母、二位の尼時子は8歳の帝を抱き「波の底にも都の候(さぶろう)ぞ」と慰められて海に沈むが、続いた徳子の長い黒髪は源氏兵士の熊手に絡め取られた。

本来なら13巻となるべき「灌頂(かんじょう)の巻」は12巻の内にあって、捕えられ、京に戻された徳子の出家から法皇の大原御幸と続き、女院の御往生で閉じられる。
京都、円山公園の東南にある「長楽寺(ちょうらくじ)」で髪を下ろされた徳子だが、出家のお布施には、ただ一つ手元に残った亡き子安徳帝の衣を差し出さねばならなかった。やがて徳子は京の北遠く、大原の里「寂光院(じゃっこういん)」のほとりに仏間と寝所のみの庵を結び、念仏を唱える日々を送っていた。
そんな彼女の元をある日、後白河法皇が訪れる。目的が何であったのか、物語では語られてはいない。

全編を通して作者は、天皇や法皇の言動には叙述するのみで、それを発せられた真意に触れようとしていない。
ところが、この一節の直前に、女院は「今年二九にぞならせましましける。桃梨(とうり)の御粧ひ(おんよそおい)なほ濃(こま)やかに、芙蓉の御容(おんかたち)もいまだ衰へさせ給はねども」とその美しさを強調しており、なにやら法皇のよこしまな底意を透かして見せる。

おわりに

「灌頂」とは「仏位の継承を示す作法」と辞書の解説でも難しいが、女院の臨終に父、清盛のふるまいを挙げ「父祖の善悪は、必ず子孫に及ぶと言うことは、疑いなしとぞ見えける」と結べば、物語が諭そうとするところはおのずと理解されよう。
「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰のことはりをあらはす」と書き起こされた「平家物語」には、琵琶のひときわ高い響きの余韻嫋々(じょうじょう)に、人の世の無常が、終わりなく重ねられているかのようだ。

大原の里「寂光院」本堂

建礼門院 徳子像(寂光院)

(2017/03/30)