シリーズ

浪速の下町に生まれた奇才  織田 作之助   その2 |わたしの歴史人物探訪

「夫婦善哉」のお話

貧しい天麩羅屋に生まれた蝶子は勝気で、ちょっと可愛い女の子。
小学校を卒業すると女中に出されるが、やがて自らが望んで曽根崎新地のお茶屋に奉公する。
そして17歳になった蝶子は座敷を盛り上げる陽気な芸妓で売れっ子だ。
が、蝶子が見染めたのは、なんと妻子ある男。
病気で寝たきりの父に代わって化粧品問屋を切り回す、一回りほど年上の維康柳吉(これやすりゅうきち)だった。
わりない仲になっても所詮は芸者と客の間柄。金に詰まって、ことは彼の父と妻の知るところに。
怒った父に勘当を言い渡され、妻は娘を残して実家へ去ってしまう。売掛の集金をあてに、出かけた旅行先の熱海で関東大震災に。なんとか帰り着いた大阪の、行き着く先は蝶子の実家。柳吉を紹介された彼女の両親の対応には笑いを誘われる。
やがて黒門市場の路地裏に所帯を持つが、蝶子がヤトナ(雇われ)芸者で稼いだ金は、あらかた柳吉の遊興費。
そしてまだ20歳の蝶子を、彼は「おばはん」呼ばわり。
彼の頼りは裕福な実家だが、父の嘆きと怒りは募る一方だし、柳吉は勤めに出てもしくじるばかり。
実家に帰った柳吉の妻が亡くなったと聞いて、その位牌を部屋に置く蝶子に、彼は複雑な面持ちだが、文句も言えないのだった。
貯金を持ち出し、芸者遊びに興じた柳吉は、そのたび蝶子の凄まじい折檻に。
やっとの思いで出した剃刀屋も上手くはゆかず、彼は実家に居直って金の無心。
蝶子に別れ話に乗って金をせしめろともいう。
そんな柳吉に不安を募らせる蝶子は占い師を頼るが、八卦の将来は悪いばかり。
でも、帰ってきた彼とはじめたのは「おでん屋」さん。
大阪では「関東焚(かんとだき)」。小説では「関東煮屋」。
はじめは上手くいっていた店でも、やがて商売に飽いて、身の入らなくなった柳吉の遊興は治まらぬ。次の果物屋もしかり。
そんな中、彼は腎臓結核と診断されて入院、手術へ。費用も何もかも、蝶子に縋(すが)るばかりだ。結局、彼女は自分の母の最期も看取れなかった。退院した柳吉を温泉養生に。

法善寺横丁 風景

必死に稼いで仕送りしても、彼は実家の妹に金をせびって、芸者揚げてのどんちゃん騒ぎ。蝶子が逆上するのはやむを得なかった。
金持ちの妾となった昔の芸者仲間から大金を借りることができて、次のお店はカフェ。
苦労もするが、なんとか店は軌道に乗り、女学生になった柳吉の娘を引き取ろうかと話す間に、彼の父親の危篤の報せ。
喪服一式を用意しても葬式に呼んでももらえぬ蝶子には、それが柳吉の翻意としか思われず、発作的に自殺をはかるが一命は取り留める。
遺産分けにあずかろうと実家で粘った柳吉が10日ほどして帰って来た。そして、法善寺横丁の「夫婦ぜんざい」を2人頬張る。すっかり肥えた蝶子。凝りだした浄瑠璃語りの大会で得た大きな座布団は「蝶子が毎日使った」で小説は閉じられる。

織田作之助の世界

作之助は多作で、短編小説家として評価されるが、優れた長編のそれもいくつかある。
2013(平成25)年、生誕100年とのことで、岩波文庫から長編小説「わが町」「青春の逆説」と、没後60年経って発見された「夫婦善哉・続編」を含む短編集の2冊が刊行された。一読をお勧めしたい。
作家とていろいろで、谷崎潤一郎に代表されるような文章の上手さという点からは「夫婦善哉」のなかにみられるせっかちな生硬(せいこう)さは否定できない。
ただ、その語り口と筋立てが読む人びとを惹きつける。
私たちの時代、高校の参考書に多く登場した英国の小説家、サマセット・モームは物語の語り手(story teller)として有名だが、作之助もしかりと思う。
何でもない素材を何でとなく綴った世界、読者はその語り口に知らず、引き込まれてゆく。
「夫婦善哉」はしっかり者の蝶子と、何事にも飽きっぽく遊び好きの柳吉の、騒動録とも読まれようが、作之助の人間観察は鋭い。
妻子ある男に惚れ込んで彼を奪ったのは蝶子。柳吉は彼女に引きずられるように、将来の生活設計の何も持たぬまま勘当されてしまった。
話は多く蝶子に寄り添って、彼女の視点から語られる。
だから、美味しいものに目が無く、酒を飲み、遊ぶ柳吉の日常は、確かに蝶子の旺盛な話力のもとにある。
が「蝶子は自分の甲斐性の上にどっかり腰を据えると、柳吉はわが身に甲斐性がないだけに、その点がほとほと虫好かなかったのだ」と彼の心中の一端を覗かせてもいる。
蝶子の、柳吉の底意への鈍感さ、愚かしげな身勝手さを見抜いているというべきだろう。
実家に帰りたいのでは、という彼の本音を恐れながら、柳吉を一人前の立派な夫に仕上げるのが使命感、被虐的な喜びとする蝶子と柳吉は微妙な、あるいは大きなずれを抱えたまま、何ともいえない相性の良さでそれなりの夫婦に成長してゆくのだろう。どちらかが良い、どちらかが悪いということはない。
読者に、そのなりゆきを時に、はらはらさせ、思わず微笑ませ、涙ぐませるあたりが、この小説の何よりの出来栄えの良さだと筆者は思う。
作之助は多くを大阪の下町を舞台に描き、地名や食べ物、金高を克明に記した。

名物カレーの店 自由軒

例えば、今も難波の繁華街に店を置く「自由軒」の「名物カレー」などのように。それは彼の言葉では「曖昧な思想や信じるに足りない体系に代わるものとして、これだけは信ずるに足る具体性だと思って」のことなのだ。
将棋が好きでジャンジャン横丁の会所へも通った作之助は、柳吉に将棋を指させているが、棋士、坂田三吉についての2編の短編小説を書いている。
在阪の新聞社に乗せられ「名人」を名乗った彼は紛糾に巻き込まれ、すべての棋士たちとの関係を一切断ち、16年間将棋を指すことはおろか人に会おうともしなかった。が、68歳になった坂田は度重なる懇願に対局を受けた。相手は当時、名人戦をめざす新進気鋭の棋士、木村、花田の両8段。1938(昭和13)年2月、厳寒の京都、南禅寺で木村との対局は始まった。先手は木村8段。初手七六歩に対し、坂田は九四歩と端歩を突いた。木村が続いて九六歩と付き合わなければ、二手損の手だ。完敗だった。
歌にも歌われたこの端歩について作之助があれこれと思いを巡らせたのが短編「聴雨(ちょうう)」で、その続編が「勝負師」だ。
稀代の変わり者、奇想天外な指し手の坂田三吉をどう捉えよう。作之助の苦心作だ。
将棋がお好きな方には特にお勧めする。彼の視点は実に面白い。

筆者は短編「競馬」が好きだ。
惚れぬいて亡くした妻に男の影が。嫉妬心に苦しむ主人公は、ひょんなことから昔妻と関係のあった、一の字を背中に彫る男と、小倉の競馬場で最後の大勝負。
妻の名、一代から、1番の単勝しか買わない主人公は、最後のレースに有り金をはたく。
結末はどうぞ、本編で。

(おわりに)戦後の織田作之助

終戦を迎え、水を得た魚のごとく、次々に長、短篇小説を発表、広く、通称オダサクの名を知らしめた。
若くに吐血していた作之助は、病を十分自覚していたに違いないが、それへの恐れを大阪人的な陽気さで隠していたのだろうか。
無鉄砲とも思える、一途な行動が、その裏返しからか、天性のものからかは本人にも分からないのかもしれない。
筆者には、長くないだろう命を承知していたからこそ、作之助は筆を急いだのだと思われてならない。
私は、作之助が描く小説の主人公たちより、書き手の彼をずっと好む。
抱き寄せるでも、突き放すでもなく、書き進まれる中に現れてくる、人間という生き物へのなんともやりきれない優しさといって好い眼差しが、織田作之助の小説の世界と思う。
興奮剤を注射しながら徹夜で文筆に勤しむことが、そんな身体に最も危険なのは自明の事。
1946(昭和21)年12月、33歳の作之助は大喀血し、東京病院に入院。一進一退を続けたが翌年、1月10日に亡くなった。
墓は織田作之助が通った、今の府立高津高校に近い楞厳寺(りゅうごんじ)にあって、妻の一枝とともに眠っている。

作之助文学碑 法善寺横丁内

お墓 天王寺区楞厳寺(りゅうごんじ)

(2017/08/02)