シリーズ

江戸城無血開城の立役者 勝海舟 その1 |わたしの歴史人物探訪

はじめに

子母澤寛(しもざわかん)の力作「勝海舟」、 その父子を描いた「父子鷹」、 晩年の語録「氷川清話」などを筆頭に、この人についての著述は多くあり、皆さまもその生涯をよくご存じなのだと思う。
限られた紙面に、彼の仕事ぶりのすべてを書き連ねれば、総花的な伝記になろう。今号は、大政奉還以降の勝海舟の獅子奮迅ぶりを中心に、彼が何をどうしようとし、どうしたのかを探ってみよう。

生い立ち

海舟(麟太郎、義邦「よしくに」だが、本編は『号』の海舟で通す)は1823年、無役の御家人の長男に生まれ、家督を譲られたのは16歳の折だった。生来、利発な彼は、剣の腕を磨き、永井青崖(ながいせいがん)に蘭学を学ぶ。居を赤坂に移した海舟が、蘭語の辞書、大部の「ドゥーフ・ハルマ」を一年がかりで筆写し、一部を手元に、一方を売ってその賃料を賄ったのは良く知られた逸話だ。23歳で妻を娶った彼は、高名な蘭学者、佐久間象山の知己を得て西洋兵学も修め、私塾を開くまでになるが、洗うがごとくの赤貧の暮らしは、なにも変わらなかった。
1853年の黒船来航は、日本をいやおうも無く世界の荒波へと引きずり出した。海防の意見書が幕閣の目に留まったことから、漸く出世の道を歩み始める。蘭語の実力を買われての「長崎海軍伝習所」勤めは、33歳から足掛け5年におよび、操船の技術と船舶の知識を深く得て、海舟を幕府海軍の第一人者へと押し上げた。そして、それは、その間日本中に吹き荒れた攘夷、開国の論争と、安政の大獄の混乱から海舟を遠ざけ、守ってくれたようだった。

「勝海舟生誕の地」紹介文

 

咸臨丸で渡米

1859年, 遣米使節団の準備に向け, 幕府から軍艦操練所教授方頭取の命を受けた海舟は, 暴風雨に見舞われ, 沈没の危険に瀕しながらも無事, 長崎から江戸へ帰った。日米修好通商条約の批准書交換のため、米国へ使節派遣を決定した幕府は、護衛の名目で、咸臨丸を随行させることとし、実質的な艦長に海舟を任じたのだ。翌年の正月に出航、5月に帰国したとき、井伊大老は暗殺され、世はまた、大きく動こうとしていた。
軍艦奉行並を命ぜられたこの頃に、土佐の脱藩浪士、坂本龍馬が、門人となっている。14代将軍、家茂に従って江戸、大坂を海路、行き来しながら、海軍力充実の必要を説く海舟に、「神戸海軍操練所」設立の命が下ったのは1863年。が、幕府の施設だけでは、将来の日本の海運を担う広い人材育成は難しいと、願い出た「私塾」設置も認可された海舟は、龍馬を塾頭に取り立てた。世界への視野の必要性と、日本の舵の方向を彼から教示された龍馬は、それを実行し、後の薩長同盟や大政奉還を実現させていったのだった。

政局はいかに

1863年初頭から翌年にかけての政局は、めまぐるしく動く。
長州藩の過激な攘夷派武士に取り込まれた朝廷は断固、攘夷、鎖港を掲げ、幕府と対立した。将軍家茂は上洛し、朝廷との関係修復を図るが、逆に5月10日を攘夷決行の日と、心にもない約束をさせられてしまう。その日が来ると、長州藩は幕府の苦衷をあざ笑うかのように、関門海峡の外国船に向け、発砲をはじめた。その夏、薩摩の大久保利通は余りに突出する長州藩を抑えようと策を練り、過激派の公家7人を追放するとともに、長州藩士を朝廷から追い落としてしまう。この時点では、大久保、西郷にとって長州藩は、政敵でしかあり得なかった。1863年7月に「生麦(なまむぎ)事件」から引き起こされた「薩英戦争」を経験し、その海軍力を目の当たりにしていた薩摩は、藩を挙げての単純な攘夷論者ではなくなっていたのだ。
1864年7月、御所、蛤御門に朝廷への復帰を強訴した長州軍は、薩摩、会津連合軍に退けられてしまう。この変事に、神戸の私塾から何人かが加わっていたことから、海舟は失脚し江戸帰府を命じられた。龍馬たちを託せられるのは薩摩藩しかないと、彼は大坂で西郷隆盛に会う。この会談が、後の江戸の無血開城につながったといってよいのだろう。ここで海舟は、3点を西郷に告げた。一つは、幕府には人材も無く、瓦解してゆくよりないから、本気でこれを相手にするな。二つ目は、賢明な諸侯4、5人が会盟して政体を成し、外国の艦隊に伍す海軍を育成し、横浜・長崎の港を開き、筋道を立てて談判すれば、屈辱的な条約締結ではない外交交渉はできる。最後に、その方針で雄藩諸侯が出京するなら、外国、特に英仏は、幕臣の私がそれまで抑えておいてみせる、というものだった。西郷はいたく感じ入り、漸く、長州藩を敵として叩くのでなく、手を携え、挙国一致をめざすべき相手なのでは、と考え始めたのだった。

さらに政局は動く

赤坂に蟄居(ちっきょ)して読書三昧の生活を送る海舟が復帰を命じられたのは、1866年の年5月。役職は軍艦奉行だが、命じられたのは大坂での各藩との交渉だった。薩長同盟を果たしていた長州藩は、恭順から一変して「奇兵隊」を編成し、銃隊装備を充実させ、明らかに幕府に敵対する姿勢を示していた。幕府は第2次長州征伐に踏み切ろうとするが、諸藩は、その弱体化を見透かして、参戦に消極的だったし、長州と結んだ薩摩藩はあからさまに出兵を拒否した。京の治安をともに担ってきた、薩摩と会津との亀裂も、もはや明らかで、海舟をもってしても、何もなせぬまま、長州とのたたかいは始まり、各所で幕府軍は打ち負かされてしまう。
そんな中、大坂城の家茂が逝去。慶喜が指揮を執るが、小倉城まで落とされては勝負あった。慶喜から停戦交渉を託された海舟は単独、安芸へと出向いたが、やがて、将軍逝去を理由に天皇から停戦命令が出され、終戦となる。
(次回に続く)

「勝海舟の銅像」建立の記

太平洋を望む「勝海舟の銅像」

(2017/08/18)