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江戸城無血開城の立役者 勝海舟 その2 |わたしの歴史人物探訪

大政奉還と鳥羽伏見の戦い

江戸に帰って、軍艦奉行として伝習に携わる海舟に1867年10月、大政奉還の報が届く。土佐藩から出されていた案を15代将軍慶喜が受け入れたもので、政権を朝廷に奉還し、諸大名による新しい公議政体を作ろうとするものだ。江戸の閣僚は、慶喜の本意が分からぬまま評定を開き、幾らかの兵を上方へ派遣し、徳川の権力を挽回しようと決議した。譜代大名の間でも、徳川政権復活運動は始まるが、徳川氏が諸大名と協力して国政に当たるのは、海舟には想定されたものだったから、それに同調しなかった。
しかし12月、討幕を意図する薩長は、「王政復古の詔(みことのり)」を出すことに成功。摂関も廃止して、三職(総裁・議定「ぎじょう」・参議)による政府を設置した。この時点でも海舟は、大政奉還を支持し、出兵に一人反対するが、到底受け入れられるものではなかった。王政復古は、慶喜に難題を突き付けていた。「辞官納地(じかんのうち)」つまり、幕府の領地は召し上げられる、というのだ。これは、幕臣のすべてが路頭に迷うことを意味していた。しかし、この時点で慶喜には、冷静さを保つことと、つぎに起こる何かを待つことが求められていた。何故なら納地など、容易に進むはずはないのだから。
1868年、元旦から「鳥羽伏見の戦い」が起こる3日の間の政局は、なんとも微妙なものだった。討幕の一戦に踏み出したい薩摩の大久保と西郷にとって、慎重論を掲げる岩倉具視は厄介な存在だった。徳川を「議定」に据えることも視野に入れる岩倉に、2日の夜、大久保と西郷は詰め寄る。開戦を認可しないなら「この場で貴方の命を貰い受け、二人、切腹する」というのだ。これには岩倉も屈さざるを得なかった。一方、大坂城の慶喜は「薩摩討つべし」の幕臣たちの怒りの声を、抑えようがなくなっていた。先だって、西郷は一策を案じ、江戸の薩摩藩邸に人を送り込んでいた。江戸市中の治安を乱し「到る所財を掠め、人を殺し、血肉狼藉して人心兢兢(きょうきょう)たり」の状態に陥らせていたのだ。
12月23日、江戸城二の丸が炎上したのも、薩摩藩士の手によるものと疑う幕府は、ついに薩摩藩邸を襲った。報を受け、西郷は開戦の口実ができたと喜び、慶喜は激怒していた。1月3日の段階で、確かに慶喜が上洛し、新政権の一員に迎えられる道は閉ざされていただろうが、交渉の余地はいくらも残されていた。大政を奉還したのだから、在京ないし、近在の兵を、慶喜はすべて大坂城に引くべきだった。新政府の内実に、大坂城の幕閣はあまりに暗すぎた。海舟が大坂城にあったなら必ず、そうしたであろう。なぜなら、薩長のそれらを圧倒する強大な幕府海軍は大坂と江戸にあり、兵の籠った大坂城を、薩長両藩とて短期間に陥落させるのは不可能だろう。やがて、仏国陸軍式装備を施した兵が江戸から、軍艦と共に到着すれば、まず陸軍力で薩長を圧倒しよう。加えて、制海権を握られた薩長軍は物資補給もままならなくなるから、徳川氏に有利な交渉が可能なのは明白だ。
が、目先の怒りに任せる幕府軍は、京都所司代、桑名藩を先陣に、鳥羽で薩摩軍と遭遇、薩摩から砲弾は発射され、西郷に「百万の味方を得たより嬉しかった」と言わしめた。ついで、夕刻、京都守護職、会津藩は伏見で薩摩軍と交戦状態に陥り、5日には鳥羽、伏見の両戦線での敗北は決定的になった。
数日前から風邪と称して、床に就いていた慶喜は兵の進発を見送ろうともしなかった。薩摩軍に「錦の御旗」が翻ったと報じられたとき、家康以来の「英主」と謳われた慶喜はただの気弱な殿様でしかなくなっていた。

敗戦の後始末と江戸城開城

1月6日の夜、密かに城を出た慶喜は、軍艦で江戸に向かった。大坂城に取り残された幕臣は、江戸から新たな兵を率い、将軍は西下するものと信じて疑わなかったが、慶喜は「恭順・謹慎」を決心していた。
1月12日払暁、海舟は品川に彼を迎えた。が、従う会津、桑名藩主ともども、慶喜は青ざめるばかりで、厳しく問う海舟に、もはや返す言葉も持たなかった。ここに至っては、徳川家の将来への選択肢はごく狭まっていよう。海軍奉行並から陸軍総裁に任じられた海舟は、まず強硬派の多い陸軍幹部に、慶喜の恭順・謹慎を納得させねばならなかった。難しさは、対立が薩長対幕府と、幕府内との双方にあって、そのいずれにも、仏国と英国という外国勢力の介入が存在する点にあった。これを熟知していたのは、海舟ただ一人といってよいかもしれない。
彼は素早かった。幕府主戦論者の後ろ盾は仏国だ。陸軍の優位を説いて、薩長軍との対決を迫る彼らに、慶喜の恭順・謹慎の意は固いと告げ、陸軍教師シャノワンを解雇し、公使ロッシュに面会した海舟は、軍事顧問団の契約解除を申し渡した。彼は衆議に諮ろうとしなかった。それは時ばかり費やし、何も決められないのを知っていたからだ。海舟の「恭順」策が強固であることを知って、陸軍兵士の脱走は相次いだ。主戦論者、陸軍奉行並 小栗忠順(ただまさ)を罷免し、兵士を常陸(ひたち)、上州、甲州へと分散して向かわせた。
さまざま、京の政府に出される慶喜助命の嘆願書は、無視され続け、官軍は東海、北陸、東三道(とうさんどう)を進んで来る。仏国と絶縁した海舟は、薩摩と朝廷に「力」を持つ英国に交渉を持ちかけた。「慶喜の助命と幕臣を扶養できるだけの収入が残されるならば、どのような協定にも応ずる用意がある」と。「慶喜の一命が許されぬなら、戦は辞さない。内乱の長期化は天皇の不名誉となろう。薩摩に働きかけ、こうした災いを未然に防いでもらいたい」と公使、ハリー・パークスを通じて脅しをかけた。一方、剣客、山岡鉄太郎に西郷への親書を授け、薩摩藩邸襲撃の際に捕えていた、薩摩藩士、益満休之助(ますみつきゅうのすけ)を同行させ、駿府へと向かわせた。
また、一方では、新門の辰五郎を筆頭に、江戸中の火消頭、侠客を集めて、策と金銭を与え、海舟の合図一つで、江戸中に火を放ち、官軍兵と見れば暴れまわって切って捨ててくれよと、頼み込んだ。焦土作戦は、ナポレオンがモスクワに迫った際にロシアが採った策だ。他方、大小の船を江戸川などに集め、江戸市民が、相模、房総に逃れられるよう手配した。丸焼けになった江戸の官軍に、西洋軍備に固められた旗本陸軍が襲いかかり、品川沖からの艦砲射撃も加わろう。
後に、それらの用意は全くの無駄だったと、愚を笑われた海舟は言った。「予もまた、はなはだ愚拙を知る。しかりといえども、もしかくのごとくならざりせば、3月13日から14日の西郷との交渉に、予が精神をして活発ならしめず、また貫徹せざるものあり」と。
海舟は、官軍と西郷の到着を待った。が、ただ待っていたのでは、みじめな交渉しかできなかっただろう。八方に手を尽くし切り、短期戦なら敵を圧倒しうる策を講じておいてのみ、対等な交渉が可能なのだ。勝海舟の真骨頂だった。かくして以後、紆余曲折はあったが、江戸城の無血開城はなった。

「西郷南州(隆盛)、勝海舟会見の地」碑

おわりに

開城の前夜、慶喜が謹慎する上野「大慈院」を訪れ、引き渡しは滞りなく進みましょう、と報告する海舟に慶喜は、突如怒りを爆発させた。「汝が処置、はなはだ粗暴にして大胆なり。かつ談判その順序を得ず」。簡単に言えば「お前がやったことは乱暴にすぎた。幕閣と十分協議し、得た案を持って談判するのが筋だったろう」。そんなことをしていたら、自分の首が無かったことを、慶喜は忘れたのだろうか。
幕臣たちから「腰抜け」「意気地なし」「大奸賊」と罵られながらも、海舟は官軍を凌駕する外交的立場をかろうじて得、万一の事態には、慶喜を英国軍艦で亡命させる手筈まで講じていた。彼は、幕府の崩壊を受け入れ、日本に生まれようとしている「近代国家」のかたちを見据えていた。一方、忠実な幕臣として、慶喜の命と幕臣の生活を守ろうと、できる限りを尽くした。
しかし、坊ちゃん育ちの慶喜に、その深謀遠慮を理解されはしなかった。開城後、西郷は次第に官軍の中軸から遠ざかり、また、憤懣やるかたない陸海の幕臣兵士の反乱の多くを、海舟は押さえることができなかった。上野の高台に籠って抵抗する「彰義隊」への対処に、長州の大村益次郎が総指揮官としてやってきたとき、海舟の役目の多くは終了したのだろう。晩年についても、さまざま語られているので、一つを紹介して、締めくくりとしよう。
明治政府の要職に就いた彼を、福沢諭吉はなじって「痩せ我慢の説」を公開し、答えを求めた。「行蔵(こうぞう)は我に存す 毀誉(きよ)は他人の弁」とのみ海舟は返した。「何をやるかやらぬか、自分が決めること。その人を褒めるか貶(けな)すかは他人の勝手」と。
勝 麟太郎 義邦、一代の策士と評されようが、清廉な心と実に強靭な精神の持ち主だったと、賞賛してやまないのは、ひとり筆者のみであり得ない。

勝海舟夫婦の墓

(2017/09/11)