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ユダヤの人びとに寄り添って生きた 小辻 節三 その2 |わたしの歴史人物探訪

彼らは旅立って行った

1941年の春ごろから、ビザを持つ人の多くはアメリカ、カナダへ、持たない者は上海へと旅立っていった。1940年9月に「日独伊三国同盟」を結んだが、日本政府はユダヤ人迫害に同調することはなく、彼らの早期出国を促す程度だったが、軍部はナチスからの圧力を受けざるを得なかった。
1941年5月「神戸ユダヤ人協会」に、東京の海軍省から尋問の呼び出し。二人の聖職者が小辻と共に出頭した。「貴方たちのような、ふつうの人種を、ドイツ人はなぜ嫌うのか?」この低俗極まりない質問に、老師は「皆さんはご存じないかもしれませんが、ナチスは他民族に激しい憎しみを抱いているのです。どうか、ヨーロッパに出ている書物を原文で読んでみてください。ロマ民族も黒人もスラブ人も日本人も、劣等民族なのですよ」そして「ナチスはユダヤ人を地球上から抹殺したら、つぎはあなたたち日本人を抹殺しようとするのです。そのことに何故気づこうとしないのですか?」躊躇う小辻だが老師の気迫に押され、そのまま通訳した。
将校たちは押し黙り、2時間後、通された部屋に入ってきたのは、外務大臣、松岡だった。「日本人は温情をもって諸君を遇します。我が国に住む限り、一切の心配は無用です」と言い切った。以降、小辻とユダヤ難民の有力者たちは、渡航資金と船便の調達に奔走した。そして1941年の秋、日米戦争が勃発する前に、ほとんどの難民は出国したのだった。

反ユダヤとの戦い

外務省の委員会で、小辻は「なぜヒトラーが反ユダヤ思想を日本に植え付けようとしているか」、について細かく説明し、抗議した。そして、そう訴える講演を各地で積極的に行った。民間人の旅行が制限されだすと、彼は「ユダヤ民族の姿」と題する書を出版した。
このことから、特高警察の尋問に続き、ついに憲兵隊本部からの出頭命令を受けた。厳しい雑言と拷問。体力も気力も限界に達しそうになったとき、「シラハマ」という名の憲兵幹部に救われた。
後に小辻は自伝を英語で著わし、アメリカで出版したから「シラハマ」がどのような表記なのか不明だが、満州で家族ぐるみ付き合った友人で、小辻がユダヤの人びとを救おうとしたとき、彼はさまざまに支援してくれたのだ。彼はすぐ日本本土から立ち去るよう指示し、小辻は、自身と家族の身の危険を十二分に理解した。実際、彼の名は憲兵隊の暗殺対象者名簿にあったという。1945年6月の戦争最末期、小辻一家は満州へ渡った。
彼はその心情をこう書いている「そこには頼りになるユダヤの友人たちがいるのだ。不思議なことに、私は自分の命を日本人にではなく、ユダヤ人に委ねようとしていた」。8月に入ると空軍の爆撃も始まり12日に、ハルピンはソ連軍に占領された。関東軍は逃亡し、7万8千人の民間人は置き去りにされたのだ。そうしたハルピンで何人ものユダヤの友人に助けられ、匿われて一年間、無事に過ごした後、小辻一家は惨めで危険な旅を経て、帰国を果たしたのだった。

戦後の小辻 節三

終戦直後の日本で、通訳の臨時雇いや、細々とした執筆で家計を賄いながらも、穏やかな日々を送る小辻の胸には、1938年、満州に渡って以来、ほとんどの時間をともに過ごしたユダヤの人びとへの思いがあった。迫害の、歴史と現実に苦しんでいる彼らへの同情と、ユダヤ教の学者としての義務感からユダヤの人びとの手助けを、自分はしたかもしれない。
しかし、追われるように逃避した満州で、自分たちが生き延びられたのが、彼らが身の危険を顧みず、助け、守ってくれたからこその事実は、小辻にとって、もっと大切だった。自分が、ユダヤの一員に加わるべき必要性が、小辻の内に生じていた。「私の人生におけるユダヤとの関わりが、ユダヤ教への思いを深めさせ、それは同時にユダヤの人びとに対する親愛の情を芽生えさせたのだ」、彼の言葉だ。
改宗するには、エルサレムに渡り、さまざまな手続きを経る必要があり、渡航、滞在を含めた費用もかなりな額になろう。1959年、還暦を迎えてまだ迷う小辻を、彼に寄り添い続ける最愛の伴侶、美禰子が強く後押した。「お金のことは心配要りません。この家を担保にすればいいだけのこと。どうぞエルサレムに行ってください」そして「人生は短いわ。他人から何と言われても、あなたの信じる道を進んでください」と。
エルサレムでの宗教審議会で、なぜ改宗したいのか問われた小辻は「私の全ての過去がその答えです」と述べた。
改宗を終えた小辻を囲んで、神戸や満州で一緒だった人びとが謝恩会を開いてくれた。思い出話は尽きず、その一つ一つに、皆は泣き、そして笑った。
やがて主催者が立ち上がり、語り始めた。「この素晴らしい人が私たちにしてくれたことを、彼が自分の命をかけて私たちを救い、導いてくれたことを、私たちは生涯決して忘れはしない」、人びとの温かい拍手の中で、小辻は感謝の涙を流した。

おわりに

ポーランドから日本へ逃れて唯一、教員、生徒全員が助かった神学校に招かれた小辻は、挨拶の最後をこう締めくくった。「今、私はユダヤ人です。私の運命はあなた方の運命、あなた方の人生は私の人生です」
その後、多くはアメリカで苦労しつつも講演活動を続けた小辻は、病に侵されて帰国し、鎌倉の家で息を引き取った。1973年10月だった。
「エルサレムに眠りたい」との生前の願いに、第4次中東戦争のただなかにもかかわらず、今や宗教大臣を務める友人が動いた。閉鎖されていた空港が開かれ、彼の柩はイスラエルに入った。「私たちは尊敬の念を持って、彼が愛したこの国に彼を迎え、聖なる場所に葬るため力添えしました」と弔辞は締めくくられた。
さて、筆者が語る言葉などほとんどない。ただ「慈愛」という言葉がある。小辻は「旧約聖書」を学ぶとともに、古くに国を失い、追われた先々でも差別と、迫害を受けながら生きたユダヤ人の先祖の歴史を深く知った。今、眼前に、苦しみながらも必死に生き抜こうとしている彼らの末裔がいた。
「慈しむ」とは、あわれむ、めぐむ、と解されようが、小辻のそれは、なまはんかな同情や恵みであり得ない。確かな理解の上に成り立つものだ。そして、その、崇高とも思える同情と恵みは、ユダヤの人びとによってそっくり彼のもとに返された。だから小辻節三は「ユダヤの魂を持った日本人として」見事な生涯を生きぬいた。そう思う。

「ユダヤ人難民逃避経路」

(2017/11/01)