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激動の時代を一途に生きて 新島 八重 その2 |わたしの歴史人物探訪

妻、八重の生い立ち

時の京都府知事は長州出身の開明的、豪腕で知られた槇村正直で、その補佐役の職にあったのは旧会津藩士、山本覚馬だった。
新島の妻となる八重は彼の妹だが、この兄に触れておこう。
砲術指南役の家に生まれた彼は黒船が来航して世情騒然の中、藩命を受け江戸で蘭学と西洋砲術を学んだ。
帰郷後、藩の蘭学塾を立ち上げたが、藩主の「京都守護職」就任に従って上京せねばならなかった。奮戦した「蛤御門の戦い」で受けた眼疾で臥さざるを得なかった彼は、戊辰戦争に至って敵となった薩摩藩に囚われた。
先見性と進取の精神に満ちた覚馬は新島の思想と信念に理解を示し、学校設立の許可が得られるように協力し、設立発起人まで引き受けてくれたのだった。

八重 帯刀姿
同志社大学からの提供

さて、漸く妹、八重の話に進もう。
官軍が会津若松に攻め寄せたとき兄の消息は不明、弟は「鳥羽伏見の戦い」で亡くなっていた。幼い折から兄に砲術を習っていた気丈な彼女は、弟の敵討ちだと奮い立つ。
髪を切り、弟の衣装をまとって大小の太刀を帯びた八重は、城に迫り来る敵めがけて縦横に砲を放ったという。
しかしいかんせん、多勢に無勢、開城の後、父をも戦で失っていた八重は、無事が判明した兄を頼って京都へ向かった。
彼女は蘭学塾教師だった兄の後任に但馬、出石藩から招かれ、我が家に逗留していた川崎尚之助と結婚していたのだが、降伏開城に先立ち彼は八重のもとを去ってしまっていた。
が、何もかもを失ったかに思われる彼女がこの時期、深い落胆に打ちのめされていたばかりとはとても思われない。
身を洋装に変じ、兄から英語を習い、日本で初めての女学校「女紅場(にょこうば)」の教師を勤め、やがて兄を通してキリスト教への興味も示す。

結婚へ

府知事の槇村の紹介で、八重の聖書の先生(ゴードン)の家で出会った二人だが、新島は八重に新しい時代を生きる女性の理想像を見出していたようだ。
1875年10月婚約、11月には同志社開校、翌年1月、洗礼を済ませた八重は新島の伴侶となった。
八重31歳、新島33歳。
八重の人となりと二人の結婚生活については2009年4月にNHKの番組「歴史秘話ヒストリア」でも紹介された。
長い米国での生活からすべてが西洋式で男女同権を当然とする新島の、妻との暮らしぶりは街の多くの旧弊な人びとにとって奇異なものだったに相違ない。
妻らしからぬ妻のように映る八重は、新時代に学ぶ同志社の生徒たちさえからもさまざまに批判されたが、少しも臆することなく、おもむくままに過ごしたから周囲との軋轢はなにかと多かった。
そんな八重に、新島は「どんなに人に嫌われたり、厭われたり、あるいは謗られても、常に心を豊かに持ちなさい。祈りを常にし、自分を愛する者のために祈るだけでなく、自分の敵のためにも熱心に祈りなさい」とも助言している。

新島宮廷(京都市指定 有形文化財)
    同志社大学からの提供

夫の死とそれからの八重

若い頃からの無理がたたったか健康に優れなかった新島は、それでも女子のための学校の設立や学校運営の資金集めに国内外を多忙に行き来するうち深刻な病に伏した。
結婚して13年、46歳で新島は帰らぬ人となった。
八重はその後42年間、87歳まで生きた。
その生活ぶりとはいかなるものだったのか。
そして八重とはそもそもどんな人だったのだろうか。
西洋式の住まいに暮らし、英語を学び、キリスト教の洗礼を受けた彼女が積極的にキリスト教の布教に携わったとか、海外の何らかと交渉を持ったという資料は残されていないようだ。
むしろ保守的な会津藩の武士の娘に生まれ、封建制度の中で厳しく躾けられて長じ、銃を持って戦った彼女は日本の古き倫理観、生活観を堅く持ち続けて生きたと考えてよさそうだ。
夫を失って一人静かに過ごしていた八重は、4年後に日清戦争が勃発するや「篤志看護婦」として40人ばかりの女性看護婦を引率し、広島の野戦病院へと赴く。もちろん無報酬の行為だ。
その後、日露の戦役にも身を投じて献身的に働いたのは、夫、新島の影響ばかりとはどうにも考えられない。
緊急の事態には損得など省みるまもなく、身を動かさずにいられない熱い血潮が八重の内に流れていたからに違いないのだ。
晩年は茶道に通じ、洋式の家屋に一間、和式の茶室を拵えた。
また、禅宗の和尚から宗教的指導を仰ぎ「改宗したのか」のそしりも受けたが、彼女にはなにも矛盾するところなかったのだろう。
意に介するところはなかったと伝わる。
頑固にも思える日々を生き通した彼女が「信条」としたものは何だったのか興味深い。

おわりに

結果として、びっくりする何かを作り上げたとか、成し遂げたということのない平凡、平和な新島八重の人生だったというべきなのだろう。
ただ、そう多くない彼女についての資料に接しても、その人生には骨太の一本の筋が通っているなと、一種の爽やかさを感じずにいられない。
「和魂洋才」という言葉がある。
功利的な意味合いに使用されることが多いがそれを「逆の意味」でまったくの「自分流」に貫いた八重に「お見事」と賞賛の辞を贈りたくなる。
今回の取材と資料の提供には、同志社社史資料センターさまに多くのご協力をいただいた。末尾ながら厚く感謝申し上げたい。

 

(2013/02/18)