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知と意志をもって女性の解放を ~平塚らいてう~ その2 |わたしの歴史人物探訪

活動は続く

『青鞜』で彼女が高らかに掲げたのは、女性自身による完全な自立だ。確かにそれは、社会とのかかわりの中で生まれたのだが、らいてうが現実の政治、社会問題に対しては、指摘されるように、まだ無関心だったとはいえよう。
『青鞜』は、案の定さまざまな反響を起こし、一部の女性からは熱烈な支持を受けたが、多くの女性にとっては、自分には関係のない絵空事のようにしか受け止められなかったかもしれない。
男性の多くは、無視するか嘲(あざけ)りの眼差しを送るかで、新聞社は冷たいか、揶揄するかでしかなかった。意気に燃える、社員たちの振る舞いは、奇矯なものと喧伝され、世は悪意を持って彼女らを「新しい女」と名付け、貶(おとし)めた。
しかしらいてうは、それしきのことで怯(ひる)むような軟(やわ)な女性でなかった。スウェーデンの女性解放思想家 エレン・ケイ(Ellen Key)を紹介された彼女は、深い関心をもってその著書を学び、翻訳し、『青鞜』に連載した。
が、彼女たちの活動に力が入ればそれだけ、著述物の内容に官憲は神経を尖らせ、発売禁止や厳重注意が発せられるようになっていった。

出会いと結婚

そんな折、26歳のらいてうは、神奈川 茅ヶ崎で5歳年下の画学生 奥村 博(後に博史と改名)と出会い、恋に落ちる。
左傾化した『青鞜』の一文が「安寧秩序を害す」と発禁処分されると、官僚の父の激しい怒りを買い、彼女は自立して実家を出る決心をする。28歳になっていた。母親に当てた手紙「独立するについて両親に」の一文を発表したらいてうは、巣鴨で、博と共同生活を始めた。
しかし、何の権利も女性には許さない当時の法制下の「結婚」を彼女が選ぶ筈もなく、あくまで愛する人との同居を選んだのだ。実質的な結婚生活が、自分の思想、活動との間に葛藤を起こすことを悟る彼女は、この一文の中で「私の思想なり、生活なりがどんなに変化して行くものか、一つ行きつくところまで行ってみよう」と述べている。
家庭生活と活動の両立が難しくなり始めると「青鞜社」の編集権を社員に譲った彼女は、やがて子を身ごもった。が同時期、博は肺結核を発病し、茅ヶ崎の病院に入院した。
長女が誕生すると、産後の肥立ちを待ちかねたように、彼の元へ駆けつけ、看病と育児に専念した。
そして翌々年には長男の誕生。子育ての実態を、その年「母としての一年間」と題した一文で発表し、自己愛の解放運動から他者への愛、幼子への愛も、決して自我を捨てず、両立しうるものだとその思想を広げた。
育児という経済的、精神的に大きな負担を抱えながら生活する中で、わが子を、つまり他者を愛することを明確に自覚したらいてうは、育児とは一種の職業であって「社会的な、国家的な仕事なのだ」と言い切るまでの、社会思想家へ発展したと言って良かろう。
母と子がのびやかに、ゆったり生きることのできない現実の社会を批判し、これを変革しなければならないと論じるらいてうは、やがて与謝野晶子らとの「母性保護論争」を繰り広げたのだった。

「新婦人協会」の立ち上げと「消費組合運動」

愛知県内の繊維工場に働く女性労働者の厳しい現状を視察したらいてうは、婦人参政権と母性の保護を要求するとともに、女性の社会的自由の確立を掲げて1920(大正9)年「新婦人協会」を発足させた。
母性主義の思想を社会に確立しようとする彼女は、その機関誌『女性同盟』の創刊にさいして「社会改造に対する婦人の使命」と題した一文を掲載している。
「青鞜社」では女性の自主独立を説き、婦人覚醒を説いたが、それはまだ社会運動までに発展していなかったことを認め、10年後の現在の考えを、その結びに「私は信じます、この世界の禍(わざわい)を幸福に転ずるものは、宗教家や思想家が考えているような、無我的な、博愛的な愛ではなく、むしろ血あり、肉ある婦人の本能に基づく最も利己的にして同時に最も利他的である恋愛及び母愛でなければならぬ、と。そして私はここに社会改造に対する二重の使命を感ずるものであります」。
彼女の活動は、日夜を問わない激務で、健康を害し、1年ほど、さまざまな地方に転地療養を余儀なくされた。
後進の女性たちも積極的に動き、治安警察法の一部改正に到達して、女性が政治的発言する集会の開催と、参加の自由を獲得し、婦人参政権獲得運動を後押しする道を開いたが、次第に活動は停滞し、1923(大正12)年に解散する。
療養から復帰して暫くの間、文筆活動を続けるが、その2年間ほどの、夫と子ども二人とともに過ごした田園生活の体験の中で、らいてうは人間が自然と共に生きてゆく方策とは何かを模索しはじめた。
東京、成城に居を移した彼女は、消費組合「我等の家」を設立「婦人戦線に参加して」と題した一文を発表し、その内容を「消費組合がめざすところの社会は権力的大社会ではなく、各個人の自由と任意によってつくられた協同組織団体の自由連合による自治社会であるということです。またそれはどこまでも消費者の立場から、消費本位に成り立っているということです。すなわち消費者に対する搾取を拒むために先ず日用必需品の共同購買を主要目的とする消費者の団体、消費組合が各所にでき、その組合の連合の力によって、消費者自身による消費者のための協同生産が行われることになり、こうして消費者が同時に生産者である全然利潤のない経済的自治の消費世界が打ち立てられるということです」と述べている。
「協同自治社会建設」の構想は、明らかに無政府主義の主張の元に、消費生活を通して「資本主義組織を確実、有効に切り崩してゆこう」とするものだ。
しかし、国家権力の支配から逃れて自由な平等社会をめざすらいてうの理想が、当時の日本社会に容認されるはずもなく、1938(昭和13)年の国家総動員法成立によって解散を余儀なくされたのだった。

戦中と戦後のらいてう

1942(昭和17)年、太平洋戦争初期の時点で、姉の勧めもあり、らいてうは茨城県の小貝川のほとりに疎開生活を始めた。
山羊を飼い、幾らかの畑を耕して夫と二人過ごし、沈黙を守り通した。
それは、戦争体制側に引き込まれないためには、らいてうに必要だった。
1946(昭和21)年11月に公布された新憲法は、これからの日本社会での自分の役割とは、と模索する彼女に、歩むべき道を示唆してくれていた。1948(昭和23)年、女性雑誌に寄せた一文「わたしの夢は実現したか」の中で戦中の生活ぶりを披露し、新憲法について、こう書いている。「わたしはいつか60を越している。(中略)いま敗戦の苦汁とともに、わたしたち女性の掌上に、参政権が突如として向こうから落ちてきた。まったく他力的に」と複雑な心中ながらも喜びを伝えた。
そして「制度において解放された日本の女性のすべてが、いま、もう一度、日本の婦人運動の最初にたちかえり、その出発であった人間としての自分の本性を、その尊厳を、さらにもっとはっきりと自覚することの必要を切に感じるものである。(中略)無限の能力を内存する尊厳なる神性、それがほんものの自分なのである。この真理を、わたしたち女性のひとりびとりが、自我の探究ということを通して知らなければならないのだ」と書いた。
最後に「明治44年、26歳のとき、わたしは『元始女性は実に太陽であった。今、女性は月である(後略)』となげいた。しかし37年後の今日、わたくしはよろこびにあふれて叫ぶ。『いまこそ、解放された日本の女性の心の底から、大きな、大きな太陽が上がるのだ。みよ、その日がきたのだ』わたしの心は、いまかぎりないよろこびにあふれている」と結んでいる。
以降、世界平和の実現と日米安保条約に反対を唱え、護憲を叫び続けた。
既に病を得て痩せたらいてうは、それでも胸に「安保を廃棄して平和な日本を」と掲げたリボンを着け、行進に参加した。そして翌1971(昭和46)年5月、85歳でその不屈の人生を終えた。

おわりに 

実に明敏だったらいてうは、ただ知の人でなく、行動の人だった。
自らが信じ、求めるものを常に身をもって訴え、動こうとし、動き続けたのが平塚らいてうだった。
「青鞜社」の立ち上げが、当時の日本社会に歓迎され、容易に受け入れられるものだなど、楽観的な見通しを彼女は持っていなかっただろうし、常に壁にぶち当たり、多くは世に背を向けられ、作戦は失敗し、悩み、苦しんだことだろう。
しかし、らいてうは前に進むことをやめなかった。
自らの失敗を深刻に受けとめざるを得ないことも多々あったろう。
が、倒されても、らいてうは必ず起き上がり、希望の灯りを見失わなかった。
そして「生きることは行動することである。ただ呼吸することではない」と述べているように、実践を終生忘れなかった。
長い日本の歴史の中で、この点においても稀有の女性だった。
まさに孤高の存在と称賛するのは、筆者だけにとどまるはずもないだろう。

らいてうの実践倫理の答案     (日本女子大学所蔵)

らいてうが卒業した当時の面影を残す成瀬記念講堂の内部      (提供:日本女子大学)

(2019/09/11)