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坂田 三吉 |わたしの歴史人物探訪

はじめに

稀代の将棋指し、坂田三吉は明治三年堺、舳松(へのまつ)の生まれ。1946年の没後直ぐに北條秀司が戯曲「王将」を発表し、新国劇の舞台で演じられて以来映画、テレビドラマで又幾つかの歌にも唄われその生涯は語り継がれている。
「物語」は物語として、本稿は棋譜に残された勝負の経過と結果を中心に彼の奮闘振りを少々紹介してみる。「阪田」とも表記されるが代筆させた段位免状は総て「坂田」としているのに従う。

「将棋」とは

坂田三吉
(堺市舳松歴史資料館提供)

囲碁、将棋という「自らが考えだす指し手」のみによって競うたたかいではその「合理性」だけが問われる。
将棋は相手の王様を一手早く取ろうと争うのだが、双方に当然そのための「作戦」がある。
先人の考案した「作戦」の不備を後に続く多くの頭脳が理論的に補い改良し、対抗策も工夫しながら今日まで続いているものを「定跡」という。
これを学ばずしてまず上達の道はない。
大人たちの縁台将棋で覚えたという坂田にはそれを教える師も、書物からの習得もなかった。が十二歳の頃、近在には既に彼の敵など一人もいなかった。

「名人」への道

明治に入って幕府の「将棋所」は消滅したが「名人制度」は東京の政財界人に引き継がれ、支えられていた。
「名人」のみが最高位八段を授けることができる。で八段に昇れば七段以下の免状発行を許されるから師匠として収人も得られようが、その八段は二、三人しかいなかったのだ。
将棋が職業として成り立つようになるのは少なくとも昭和以降で、この当時まして素人が生計を立てられるはずもなかった。
しかし十六歳で父を亡くし、一家の大黒柱となった坂田の稼ぎの多くは本業の草履作りでなく「賭け将棋」にあった。
また時折、素封家が催す将棋大会の優勝賞品は箪笥(たんす)一竿とかで、勿論即現金化もできた。
「賭け将棋」は負けると「さま」にならないのではない、生活できないだけだ。
二十歳の頃「堺の三吉」といえば凄腕の賞金稼ぎで通っていたのだ。
二歳年長の因縁の仇敵、関根金次郎は千葉生まれで前名人の愛弟子。
運命の初手合いは関根二十六歳、武者修行の道すがらと。
素性を明かさぬ五段程の関根に完膚なきまでの敗北だった。
「強い奴が居る!」天狗の鼻を折られ、賭け金を奪われた坂田は数日寝込んだという。
この水準では「基礎学習」の欠如がこたえるのか。
いかに天才的な「地力」をもってしても「力」だけで登りきれない絶壁のような「理詰めの山」がこの世界にはあるに違いない。
後にこれを越え得たこの人の「能力のありよう」はとても解明できないのだろう。
屈辱は負けず嫌いの坂田を発奮させた。
苦節十年、八段の関根に善戦して六段に昇った坂田は今や大阪随一の指し手だった。

「銀」が泣いた

大正二年、四十三歳の坂田は在阪新聞社、有力者の「打倒東京」悲願に押され、遂に上京して決戦の舞台に立った。
「王将」の歌に曰く「明日は東京へ出てゆくからは何が何でも勝たねばならぬ」そして「勝てば王将、負ければヒヨコ」と。
今、段位差はひとつ「香落ち一番手直り」つまり初戦関根は左の香車(やり)を引く。
これに負ければ総ては終る、実力差二段以上ありというわけだ。坂田が勝てば先番の平手(ハンデ無し)へと続く。
その大事な香落ち戦、坂田は上手(うわて)の弱点、彼から見て右の端を無視したたかいを左側に挑んだ、平手の将棋でねじ伏せようという気迫だ。が「勝とう、勝たねば」の気負いは焦りの大悪手「8五銀」を呼んだ。
「銀が泣いてる」の名台詞はまさにこの場面のものだ。
歩を取って強情に出た「銀」は、関根に咎められる坂田自身だった。
追われ、いたぶられた「銀」がほうほうのていで自陣に逃げ帰った時、百人からの観戦者は勝負ありとほぼ会場を去った。
ここからの指し手が、しかし私の目にも凄いと映る。
明らかに悪い形勢を彼は耐えた、堪えに堪えて決定打を与えなかった。
賭け将棋の辛酸を嘗め尽くした坂田の「泣きの入った」技だ。
世間はよく「力の攻め」を評価するが、受けの強さが坂田将棋の真骨頂であるまいか。
百手目「4八角」遠く敵陣を睨んで坂田は渾身の一手を放った。
ここでも関根有利は覆らないと専門家の評だがかなり縺れた局面にみえる。
百二十四手目、6六に出た坂田勝負の角を金で払ったのが関根の敗着となった。
坂田は勝った、首の皮一枚勝負の場に残り得るにがい苦しい勝利だった。
地の底から這い上がった坂田は、第四局「平手」で初めて関根を制した。
ここで公平を期し、事実を述べておこう。
逆に追い詰められた最終局、坂田後手の平手戦をさすが関根は譲らなかった。
それから四年、八段となっていた坂田は先番ながら平手で再度関根を破った。
東京は騒然となった。
坂田の「十三世名人襲名」も現実味をおびてきたのだ。
しかし名人位の「箱根越え」をなんとか阻止したい東京棋界は関根の一番弟子、実力既に師を凌ぐと評判の新鋭七段、土居市太郎との平手戦を申し入れた。
刺客を返り討つか、師匠の仇と倒されるのか。
坂田はこの大一番を落とし、結果として名人位は関根へと継がれた。

たたかいの果てに

積年の憎き難敵関根金次郎を平手で下したとき、それだけを目標に遮二無二たたかってきた「勝負師坂田」は「棋士坂田」へ変貌を遂げたのだという人は多い。
凡庸な私に理解は難しいし、不遇といわれる晩年を含め以後の坂田を語る紙数もない。ただ身を切り削った勝負の数々の先に、彼が楽しんで将棋を指す時間を幾らかでも持てたと思えれば、なにやらほのぼのと嬉しい。
《取材協力》 堺市市民人権局 舶松人権歴史館

(2013/03/18)