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大津波から命を守れ! 濱口梧陵と、彼の功績を広く知らしめた 小泉八雲 その1 |わたしの歴史人物探訪

はじめに

今回は異例だが、二人の人生を同時に、短く紹介させていただくこととした。読み進めば、その理由が納得いただけよう。
まず、約200年前に生まれた濱口梧陵(はまぐち ごりょう)とはいかなる人物だったのかを、お伝えしよう。
続いて、彼が成したことに感銘を覚え、英文でそれを著したラフカディオ・ハーン、日本に帰化しての名、小泉八雲を紹介する。

 

生い立ち

「梧陵」は雅号で、正しくは儀兵衛と呼ぶべきかもしれないが、この稿では広く伝わる梧陵で通そう。
1820(文政3)年に、現在の和歌山県有田郡広川町に、今では「ヤマサ」で知られる、醤油醸造業を営む「濱口儀兵衛家」の分家に彼は生まれた。
12歳で本家の跡取りとなり、34歳で7代目として醸造業を継いだ。和歌山と千葉の距離感に、いささかの戸惑いもあるが、銚子での工場経営のみならず、当時の大店の主(あるじ)として広く学び、公の人間としての自分はどうあるべきなのか、常に心がけて育っていったことは確かだ。
彼は単なる実業家でなく、教育者、社会事業家、政治家としての人生をも歩んでいくことになる。
江戸でも学んで、開国論に傾いた梧陵は、海外への留学も志すが、それはこの時代にあって許されるはずもなく、故郷の広村へ帰り、教育機関を立ち上げて若者たちの育成を図ったりもしたのだった。

濱口梧陵肖像画

稲むらの火の館

 
 

大津波の襲来

2011(平成23)年3月の東日本大震災から引き起こされた巨大な津波は、改めて人びとにその恐ろしさと防災の必要さを認識させたものだった。
彼が醸造業者の主となった翌年の、1854(安政元)年11月5日、安政南海地震が発生。続く津波が、彼の住む紀州、広村を襲った。梧陵は、人びとがそれを目印に高台の広八幡神社へ避難できるよう、自身の田の藁(わら)の山に火を放った。結果的に村人の死者は30名ほどで、9割の人びとは助けられたという。
彼の残した手記には「すでに日はすっかり暮れてしまった。そこで松明をつけて、道端の藁山10余りに火を放たせた。その火によって、漂流者に、その身を寄せて安全を得ることの出来る場所を表示しようとした。この案は意味がないものではなかった。この火を頼りにして、非常に危ないところを、辛うじて命が助かった者も少なくない」と。
津波から命を救うには、いかに速く情報を伝達できるかにかかっているという事実は、東日本大震災の大津波でも明らかだ。
これだけでは終わらない。その後の梧陵の行動もまた、素晴らしかった。家屋、財産、仕事の手立てを失った村人に、まずは水と食糧を整え、農家には農具を、漁師には船、漁具を、商家には資金の援助を。
すべてが流された村に見切りをつけ、人びとが故郷を捨てなくても済むように、仕事と賃金を与えなくてはならない。津波から村人の命を守るための大きな波よけ土手を作る工事ならば、一石二鳥の効果があろう。
紀州藩に対して「この工事は恐れながら私がどうにかしてでもやりくりをします。万一洪浪(こうずい)があっても人命はもちろん、田畑、家、家財を無事でしのぎ、村を離れないようにする主な方法であり、人心が安堵し、追々に村に益をもたらすと考えられますので、災害復興のためにご配慮賜りますようお願いします」との口上書を送ったのだった。
築堤に従事した人数は、延べ56,736人。広村の復興と防災工事の総費用は堤防を含めて6,204両に上り、すべては梧陵の私財と、醸造業の利益で賄われたのだった。堤防完成から88年後の1946(昭和21)年、広村を昭和南海地震の津波が襲ったが被害は軽微に止まり得たのだった。

その後の梧陵

彼はまた、医学の発達にも支援を惜しまず、当時、恐れられていた、天然痘を根絶しようと設立された種痘館の復興に手を差し伸べた。
これは後に「西洋医学所」となり、現在の東京大学医学部の基礎となったのだ。またコレラ防疫にも力を注ぐなど、多くの社会事業を手掛けた。
また、商人ながら、紀州藩の勘定奉行に抜擢されて紀州藩、後には和歌山県の経済の近代化に尽力し、副知事として政治改革に乗り出したりもしている。
1869(明治2)年に大広間席学習館知事に任じられた梧陵は「学問の要は安民にあり。安民の本は修身にあり。まず五倫を明らかにし道芸を学び、大雅の風を存すべし」とする学則五箇条を定めた。難しい言葉が並んでいるが、言わんとするところは己(おのれ)の信条。学んで知ることと行動することは常に相表裏している、真の知識は実践を伴うもの、といった意味だ。
また、西洋文明を学ぶには語学が必要と考え、英語教育に力を入れて「共立学舎」を立ち上げたりもした。
彼の生涯における行動は、まさに「済世安民(さいせいあんたみ)」世の中の弊害を取り除いて、世の人びとを救い、民に平和をもたらそうとする志から成されたものだった。若い時分から、海外の事情や国際情勢に興味を持ち続けていた梧陵は、65歳にしてようやく念願の欧米視察に出発した。
そして、途上のニューヨークで病没した。

感恩碑

広村堤防

(2019/11/05)