シリーズ

漫画の神さまと 手塚治虫 その1 |わたしの歴史人物探訪

はじめに

2019年7月18日、京都アニメーション第1スタジオを襲った事件に人びとは驚愕し、そこで起こったできごとが明るみになるにつれ、その痛ましさに世界中のアニメファンが嘆き悲しんだ。犠牲になられた方々への追悼のおもいは今も人びとのこころに溢れ、止むことがない。

この事件には、日本のアニメが世界の人びとに広く受け入れられていることもあらためて気付かされた。アニメの歴史をたどるとき、第2次世界大戦後の日本にひときわ光り輝くひとりの人物が浮かび上がる。「漫画の神さま」といわれた手塚治虫である。

アニメーションとは「主題の画像の位置を少しずつ変えて書いたものを1コマずつ撮影する技法」をいい「漫画映画、漫画テレビ画像」として、人びとに愛され続けている。テレビ放映で挙げるなら、国民的ともいえる『サザエさん』『アタックNo.1』『巨人の星』『ルパン三世』『ドラえもん』『おそ松くん』『ゲゲゲの鬼太郎』などなど枚挙にいとまがない。冒頭の京都アニメーションは代表作『けいおん!』で「ガールズバンド」ブームを巻き起こすなど、アニメが及ぼす社会への影響はますます大きくなっている。

そのアニメーションの元となるのは、勿論、描かれた「1コマずつの漫画」だ。漫画作者として、常にその世界の先頭を走り続けた手塚治虫の生涯を短くだが紹介しよう。

手塚治虫記念館外観

生い立ち

手塚(てづか)治虫(おさむ)(本名 治:読みは同じ)は1928(昭和3)年、現在の豊中市で比較的裕福な家の長男に生まれた。

彼の記念館は宝塚市にあるが、これは5歳の折に祖父の広大な屋敷に移り住んで、長く実家としていたからだ。戦前の宝塚には、既に少女歌劇団(現在の宝塚歌劇団)の演じる大劇場があり、母としばしば観劇したようだ。温泉のある田園の中に新興の住宅が散在し行楽施設も整うという、日本ではいささか異質な風景の中で手塚治虫は育っていった。

父はカメラなどを好む人で家庭用映写機もあったから、ディズニーの映画を幼いころから観ることができ漫画動画への興味は早くからあったようだ。家には『世界文学全集』も揃っていたようで、いつのころからか読み漁ったという。また、父母ともに漫画を好み、絵本とともによく読み聞かせてくれた。自らもよく漫画を読み、好んで描いた。大阪、池田の池田師範附属小学校(現在の大阪教育大学附属池田小学校)で、彼の漫画は教師の間でも評判になるほど、傑出していたという。十分に恵まれた環境で育ったことが、手塚治虫の漫画作品に強く外部性・異質な文化を持ち込んで人びとを魅了したのは、まず間違いなかろう。

進学した大阪府立北野中学校(現在の北野高校)を戦時のことで1年短縮して卒業し、軍医養成促進のため、当時の大阪帝国大学(現在の大阪大学)内に付設された医学専門部へ入学したのは1945(昭和20)年、そしてこの年の6月、勤労奉仕中の大阪で大空襲に遭遇、九死に一生を得る。この記憶は強く彼の内に留まったようだ。

戦後早々の1946(昭和21)年、子ども向けの新聞紙上にデビュー作の4コマ漫画『マアチャンの日記帳』を連載して漫画家、手塚治虫の登場となる。子どもの頃から天文とか昆虫に強くひかれていたことから、名前に「虫」の字を付けて、筆名を「治虫」にしたという。

1947(昭和22)年の長編『新寶島(しんたからじま)』が大人気を博し、この成功に乗って『火星博士』『怪人コロンコ博士』『キングコング』『ロストワールド』『メトロポリス』『来るべき世界』など、SFや冒険漫画へと幅を広げていった。

1950(昭和25)年に『漫画少年』誌上に『ジャングル大帝』の連載を開始して多忙を極める。優秀な彼は、翌年に医学専門部を卒業し、1年間のインターン生活を経て医師国家試験にも合格するが、やはり本業は漫画だった。

漫画家として

1952(昭和27)年『鉄腕アトム』の連載を開始、上京して仕事場を新宿に構えるが、翌年には多くの漫画家が暮らすこととなる豊島区の「トキワ荘」に移った。「トキワ荘」には寺田ヒロオ、藤子不二雄(藤子・F・不二雄、藤子不二雄A)、石森章太郎(石ノ森章太郎)、赤塚不二夫らが続々と入居、まさに、漫画家の集団生活の場となってゆく。

翌年からは『リボンの騎士』が『少女クラブ』で連載され始めた。ディズニーや宝塚歌劇の刺激を受けて描かれたこの作品は、少女向けの物語漫画のお手本といわれている。

1954(昭和29)年からは『火の鳥』を『漫画少年』に連載。この作品はその後、幾度も中断するが、結局は手塚治虫の生涯作品となる。その傍ら、大人向けの漫画も手掛けるようになっていった。

1958(昭和33)年ごろからは、新たに社会の暗部を直接的に描く「劇画」が現れて人気を博し、苦しみながらも劇画風な手法を学んで『黄金のトランク』などを手掛けるようになっていった。

そんな中、幼馴染の岡田悦子と結婚、宝塚ホテルで挙式したが、原稿が遅れて缶詰状態となり、式に遅刻するというありさまだった。このころになると、週刊誌が多く発刊されるようになり、専属作家としてさらに多忙を極めていったようだ。

1960(昭和35)年には練馬に自宅を建築、いよいよ腰を据えて東京を仕事場とする暮らしが始まった。

漫画動画(アニメーション)の登場

幼いころからウォルト・ディズニーの漫画映画を好んでいた手塚治虫は、戦後の早い時期から漫画動画の作成を夢見ていたようで、1962(昭和37)年には、後に「虫プロダクション」と改名される「手塚治虫プロダクション動画部」を設立し、日本初の30分枠のテレビアニメーション『鉄腕アトム』を1963(昭和38)年の元旦から放映した。この作品は最高の視聴率40%を獲得する大人気となって4年間続いた。その後も『ジャングル大帝』で、ヴェネツィア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞を受けた。

しかし、動画の作成では、それを学んでいない手塚治虫の基礎技術の欠如は明らかで、550人ほどに膨れ上がった集団は、急速な経営不振に陥っていった。1973(昭和48)年には自らが経営する「虫プロ商事」も倒産し、多額の借金を負うこととなってしまった。さらに少年誌での人気ははかばかしいものでなくなりつつあって、彼はこのころを「冬の時代」と回顧したそうだ。

(次回につづく)

(2020/07/17)