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混血孤児2000人の母 澤田美喜 その1 |わたしの歴史人物探訪

澤田美喜さんと子どもたち
「エリザベス・サンダース・ホーム」HPより

(注記:「混血」は「純血」との対比で使われており、「純血」が優位に、「混血」が劣位に置かれて、「混血児」あるいは「混血孤児」「孤児院」などは差別的に使われてきた経緯がありますが、本稿では当時の差別的な状況をそのまま伝えるために当時の表現のまま使用しております)

プロローグ

第2次世界大戦が終戦を迎えた日本。焼け跡には闇市が立ち、街には貧困にあえぐ失業者があふれました。帰国兵士や戦災孤児、街娼(がいしょう)の姿もあちこちに見られ、みな自分のことだけで精いっぱいでした。
「進駐軍」と呼ばれるアメリカ兵が日本に駐屯し、街を闊歩(かっぽ)する姿があたりまえのように見受けられるようになった1946(昭和21)年6月、ラジオのニュースが、日米混血児が生まれたことを報じました。「これは戦後のアメリカと日本の最初の握手であり、太平洋の東西両岸を結ぶ愛のしるしです」と、アナウンサーは言葉を飾り立てて報道しました。

それからほどなく、本稿の主人公である澤田美喜は大変な光景を目にします。川の中に赤ん坊が浮いているのを見かけました。「進駐軍の兵隊に乱暴された日本人の女がここで赤ん坊を産み落としたそうだ」とかたわらに立っていた人たちがささやきかわしていました。また数日後、白い肌の赤ん坊が死体となって転がっているのを目にしました。「米兵の子じゃないか」見物人の一人がつぶやきました。それから幾日もしないうちに、今度は、コモに包んだ赤ん坊の死体が川から引き上げられる場面に出あいました。「始末に困ってこんなところに捨てやがって」と、ののしる言葉が美喜の耳を打ちました。

日本に進駐した米兵と日本人女性との間に多くの混血児が生まれました。祝福されずに生を受けた子たち。その多くが父も知らず、母からも見捨てられていくのです。澤田美喜は心に誓いました。
「日本には大勢の祝福されない混血孤児がいる。私の天命はこの子らの母になることだ」と。

岩崎家の長女

1901(明治34)年9月19日、岩崎美喜は三菱初代社長である岩崎弥太郎の長男久弥の長女として誕生しました。祖母喜勢の美喜への愛情はことのほか深く、結婚する20歳の夏まで大切に育てられたそうです。喜勢は、美喜を「お茶の水」と呼ばれる女子高等師範学校付属の幼稚園に入園させました。付属幼稚園に入れば、小学校から上の女子高等師範まで難なく進級することができるとの思いからでした。

そのころ、岩崎家には三人の兄たちに英語を教えるため、津田梅子が家庭教師としてやって来ていました。津田梅子は6歳のときに岩倉使節団に随行して渡米した、日本で最初の女子留学生の一人でした。アメリカの初等・中等教育を受け、生活文化を吸収して成長した梅子が、美喜に与えた影響は計り知れないものがあったと思われます。

美喜が次に出会ったのは聖書でした。そのころ全国で流行したはしかは、岩崎家の子どもたちも避けることはできず、大磯の別荘で静養にあたっていたときのことでした。美喜は隣の部屋から聞こえてくる「汝(なんじ)の敵を愛せよ」という言葉に耳を疑います。隣は赤十字から子どもたちの世話にきていた看護師の部屋でした。聞いてみると、聖書という書物を読んでいたことがわかり、それらがキリストの言葉であると教えてくれたのでした。

美喜がクリスチャンの同級生から手に入れた聖書をこっそり家に持ち帰って読んでいると、祖母の喜勢に見つかって取り上げられてしまいます。そのうち、何度取り上げても聖書が手に入るのは学校のせいだとして、美喜はとうとう「お茶の水」を退学させられてしまいました。

結婚と外交デビュー

岩崎家の中では型破りだった美喜も20歳を迎えると、縁談が持ち込まれるようになりました。しかし、美喜は持ち込まれた縁談を次から次へと破談にしてしまうのでした。

そんな美喜の周りでは、父の姉妹である加藤の伯母(のちの内閣総理大臣となる加藤高明の夫人)や幣原(しではら)の叔母(のちの内閣総理大臣となる幣原喜重郎の夫人)が「外国生活」というキーワードで楽しい話を聞かせ、美喜の目を海外に向かせるのでした。そんな折、加藤の伯父と幣原の叔父が縁談を持ってきました。見合いの席に現れたフランス帰りの男性は、外務省勤務でクリスチャンであり、洗練された会話と仕草で美喜の歓心を得たのです。

4月に見合いをして、5月に親類一同が会食、6月には両家の親兄弟が集まるというスピードで縁談が整い、その年大正11(1922)年7月、美喜は結婚しました。夫は澤田廉三(さわだれんぞう)。13歳も年上の外交官でした。

新婚の年の12月、廉三はアルゼンチンのブエノスアイレスに赴任することになりました。当時のブエノスアイレスは南米のパリと呼ばれ、住民の大多数は移住してきたヨーロッパ系白人が占め、石造りの建物や道路などヨーロッパ建築が軒を連ねる南米でもっとも美しい街のひとつでした。言葉もほとんど通じない中での初めての出産。美喜の初産は3週間遅れた出産となり、4,000グラムを超えた健康な男の子は「信一」と名付けられ、すくすくと育っていきました。

2年間の公使館生活で、美喜はさまざまな人と交流を重ねました。なかでも、公使館によく訪ねてきたアルゼンチン大統領夫人や海軍大臣ドミニク・ガルシア夫妻との親交は忘れられないものとなりました。
「戦争はいけません。一番悪いことです。戦争は負けた国の人も、勝った国の人も惨めにします」と語ったガルシア夫人の言葉は、美喜の心に深く刻まれました。

ブエノスアイレスを経て、北京、本省勤務で一時帰国した後、またロンドン、パリ、そしてニューヨークと新たな任地での海外生活が待っていました。1931(昭和6)年、ロンドン勤務になったときには、夫婦はすでに4人の子どもたちに恵まれ、次男久雄、三男晃に続いて初めての女の子が生まれ、恵美子と名付けられていました。

夫や子供たちとの外国生活の中で、美喜にとってもっとも強い影響を受けたのがイギリスでした。イギリスでは女性たちの育児に対する認識がとても高く、子どもの教育はすべての社会人の責任と考えられていました。子どもであろうと、独立心を養うために自分のことは自分ですることが習慣化されており、大人と同じように会話に入れて話をさせるなど子どもの人格が尊重されているのでした。

ある日曜日の礼拝のあと、司祭に紹介された老婦人の誘いでドライブに出かけた美喜は、やがて森の中の大きな石造りの建物にたどり着きました。
「ここはどなたのお屋敷でしょう?」と尋ねた美喜に、老婦人は答えました。
「ドクター・バナードス・ホームという孤児院ですよ、ミセス・サワダ」

ここで美喜が目にしたものは、それまで抱いていた孤児院のイメージとはかけ離れたものでした。暗い表情をしている子はひとりもなく、みな清潔な衣服を身に着けているのです。礼拝堂からは讃美歌のメロディーが流れ、その清澄な声の響きに心が洗われるように感じたのでした。園内には小学校から中学、高校までの学校施設があり、職業訓練まで行っていました。18歳でここを出るときには、翌日から就業できるだけの技能が身につくように指導しているのでした。毎週木曜日、美喜は奉仕としてこのホームへ働きに行くことにしました。ここで働くことはこの上ない喜びであることを実感したのです。人を幸せにすることの喜び。それまでの与えられる幸福より、人に与える幸福の方がどれほど大きな喜びであるか、美喜は初めて知ったのでした。

次回につづく

(写真は社会福祉法人エリザベス・サンダース・ホームさまのご了解をいただき掲載させていただきました)

(2021/11/09)