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北の海から日本を見た男 高田屋嘉兵衛(その1) |わたしの歴史人物探訪

生い立ち

高田屋嘉兵衛(たかたやかへえ)は、1769(明和6)年(徳川第11代将軍家斉の治世)、淡路国津名郡都志本村(つしほんむら)の貧しい農家に生まれました。

幼名は菊弥(きくや)、そして家には菊弥を頭に6人の兄弟が居ました。

「11にもなって親の飯を食っておれんわい」と、菊弥は自ら口減らしのために、母の妹の嫁ぎ先で、漁師相手に商売をしていた和田屋喜十郎方へ奉公に出ます。

江戸期の淡路島は瓦の産地で、大坂へ瓦を運ぶ船に乗ったり、大坂で商品の仕入れをしたりと、菊弥は商いを徐々に覚えていきました。

この時代の男子は13歳から15歳くらいになると成人しますが、菊弥も成人すると、嘉兵衛と名を変えました。

海へ

樽廻船の模型

樽廻船の模型(高田屋顕彰館にて撮影)

22歳になった嘉兵衛は、和田屋喜十郎の実弟である堺屋喜兵衛を頼り、淡路島を出て兵庫へと渡りました。堺屋は兵庫津で廻船問屋を営んでいました。

嘉兵衛が淡路島を出た頃の兵庫津は、「天下の台所」と呼ばれて豊臣期から徳川期にかけて大きく発展した大坂に隣接する湊として繁栄していました。

『摂津名所図会』には、「・・・西海道の駅にして、大坂入港の要津(ようしん)なり。・・・諸国の商船ここに泊まりて風波の平難を窺ひ、諸品を交易す。・・・繁華の地なり」と、その賑わいのようすが描かれています。

船が入るたびに湊が活気づき、街は潤い、嘉兵衛はその様子を目の当たりにしながら、堺屋の下働きとして、積み荷を降ろし、帳面を記録し、どんどん仕事を覚えていきました。そんな嘉兵衛を見て、堺屋喜兵衛は嘉兵衛を江戸大坂間を結ぶ樽廻船に乗せることにしました。

樽廻船の主な積み荷は灘の酒です。樽が発明されたことによって、液体をこぼさずに輸送できるようになりました。しかし、お酒は生ものだけに運搬には速さが求められます。潮の流れや風向き、陸の地形などを見て、早く、確実に操船する技を身に着けていく嘉兵衛は、トントン拍子に船頭へと出世していきました。

江戸は幕府が開かれると急速に人口が拡大し、江戸中期には100万人の人口を数えましたが、関東という商品生産の未成熟地に人工的に造られた都市でしたので、上方から下ってくる「物」は「くだり物」と呼ばれ、大変重宝されました。江戸へ送れば何でも売れたので、太平洋航路の菱垣廻船、樽廻船は大いに発達します。そのような背景とともに、嘉兵衛も樽廻船の船頭として名を知られるようになっていきます。

堺屋は本来、瀬戸内海を経て赤間(下関)を回り、鳥取に至る日本海航路の廻船問屋でしたので、嘉兵衛は年貢米を運ぶ廻船に乗る機会も多く、日本海の港をめぐりながら、北前船のうわさや、その姿を目にすることもしばしばあったと考えられます。その商売のスケールの大きさを知るにつれ、蝦夷地への思いは大きく膨んでいきました。

蝦夷地へ

北の海へ行きたい・・・。蝦夷地は海産物の宝庫でした。荷はいくら運んでも需要は限りなくありました。東北から蝦夷地へは、千石積の大きな船が日本海の荒波をけたてて行き来していました。北前船と呼ばれるその船は、当時の海運界の花形でした。

嘉兵衛が蝦夷地に渡ることができる船を手に入れるためには、相当の知恵と力を必要としたことは想像に難くありません。当時、千石船の建造には安く見積っても千両からの資金がかかると言われ、嘉兵衛は北前船の船主になるために、今まで培った人脈やあらん限りの知恵を振りしぼりました。そしてとうとう1796(寛政8)年、「辰悦丸(しんえつまる)」という千五百石積の巨船を進水させたのです。嘉兵衛が28歳の時でした。

(「辰悦丸」は謎が多い船で、若い嘉兵衛がどのようにしてその建造費を捻出できたのかよくわかっていません。中古船を購入したという説まであります。司馬遼太郎の小説『菜の花の沖』では秋田土崎湊(つちざきみなと)の船大工の棟梁に造船を依頼したとされていますが、山形の酒田であるとの説もあります。)

北前船のような船を「買積船」といい、船主はみずからの才覚で商品を仕入れ、湊々で商売を重ねながら、蝦夷地へ向かいました。

嘉兵衛は「辰悦丸」に乗り、兵庫から灘の酒、米どころの酒田では米などを積み、各地で商いをしながら、蝦夷では昆布、魚肥などを仕入れて、上方に運び販売する、という商売をスタートさせました。

辰悦丸模型

「辰悦丸」船出前のようすを再現(高田屋顕彰館にて撮影)

その当時の蝦夷地は松前藩が支配しており、交易の拠点は、松前の三湊といわれた、松前、江差、箱館でしたが、松前、江差の湊はすでに既存の商圏ができ上っていて、嘉兵衛のような新参者が入り込む余地はなかったようです。箱館の湊は未だ開拓が進んでいませんでしたが、水深が深く、海底の地形も錨の受けかかりが良く、湾内は箱館山に守られて風もほとんど吹かないので、良港と呼ぶにふさわしい場所だったのです。

嘉兵衛は「蝦夷地の商いはこの地で行う」と決め、1798(寛政10)年、嘉兵衛が30歳の時に、箱館の湊に高田屋の支店を開設します。

当時、蝦夷地ではアイヌの人たちとの取引において、彼らの持ってくる狩猟品や海産物などと、本土から運搬されてきた米、塩、酒などの物品との交換比率が公平ではなかったり、松前藩はアイヌを搾取することで経済が成り立っていた、といわれています。しかし、嘉兵衛はアイヌも和人も分け隔てることなく、公平に取引をしました。

千島航路の開拓

嘉兵衛の商売はしだいに大きくなっていき、千五百石積の大船に積み込む商品が、箱館の湊に集積されるようになると、当初400戸ほどの家数しかなかった箱館の町もしだいに発展していきました。

折しも、1799(寛政11)年、幕府が北方の警備や開拓のため、松前藩から東蝦夷地を取り上げ、直轄としたことにともなって、箱館に拠点を置いたことがますます嘉兵衛のチャンスを広げることになりました。

幕府はエトロフ島の開拓を考えていましたが、クナシリ島とエトロフ島の間にはクナシリ海峡という、三方から潮流が衝突する航海の難所があり、海難事故が絶えませんでした。

嘉兵衛は、幕府の役人、近藤重蔵から、エトロフ島とクナシリ島の間を小さな船でも渡れるような航路の開拓を依頼されました。嘉兵衛はすぐにとりかかると、ここでも船頭としての才能を存分に発揮し、新しい航路をみつけ出すことに成功します。この千島航路開拓の功績により、嘉兵衛はその後、エトロフ島の開拓も一手に引き受けることになります。

この時、嘉兵衛は現地のアイヌの人たちに網を使った魚のとり方を教えたり、魚の肥料や干物を作る加工場をつくったり、また17か所の漁場の開拓もしています。

また、嘉兵衛が38歳の時には箱館に大火があり、自身の店も被害を受けましたが、私財を投入して被災者にお米やお金、衣類を提供し、長屋を建設して入居させるなど、救援活動を行っています。

(2022/09/30)