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「瞽女(ごぜ)のいた風景」障がいのある女性の自立のかたち(その1) |わたしの歴史人物探訪

はじめに

かつて日本には、障がいがありながらも芸を身につけることで自立し、医療も福祉もない時代を生きた女性たちがいました。瞽女(ごぜ)といわれる盲目の女性たちです。

三味線を携えて各地を巡り、民謡や流行り歌(はやりうた)、また段物(だんもの)といわれる、歌舞伎や浄瑠璃(じょうるり)でも人気の出しものを何段にもわたって聴かせていました。厳しい修行に裏付けられた彼女たちのパフォーマンスに、聴く人は皆心酔し、涙を流し、歓喜に満ちた拍手を惜しみなく送りました。近世にはそんな瞽女の集団が日本の各地に存在しましたが、昭和の時代に消滅してしまいます。

瞽女さんたちが活躍した時代は、障がいのある人たち、特に女性に向けられる視線は、今とは比較にならないぐらい厳しいものがあったでしょう。子どもが石を投げたり、道に穴を掘っていたずらをしたりすることもあったそうです。現在でも#MeToo運動が起こったのはつい先ごろのことで、目の不自由な女性が旅をして、他人の家に泊まる不安は計り知れないものがあったでしょう。しかし、村の人々は瞽女さんたちが来るのを楽しみにしていました。

「東海道五十三次 二川・猿ケ馬場(歌川広重)三味線を携えた3人の瞽女が描かれている   (国立国会図書館デジタルコレクションより)

瞽女さんとは

瞽女さんが最後まで暮らしていたのは新潟県です。瞽女唄が新潟大学で録音され、1954(昭和29)年に日本で初めてラジオで放送されます。また、1955(昭和30)年に高田を訪れたウィーン国立音楽大学の教授で、世界的なハープシコード奏者、エイタ・ハインリッヒ・シュナイダー氏の、雅楽の演奏者は現代人だが、古い生活を守っている高田の瞽女からは古典音楽の精神が伝わってくる(参考:HP『新潟文化物語』File-84「越後の瞽女(前編)」)という発言も、後に瞽女ブームが起こる前ぶれと言えるでしょう。

わずかに残っていた瞽女さんたちは大きなホールや劇場で演奏をすることになり、また無形文化財への登録や人間国宝、褒章の受賞など、瞽女さんの姿が今にも消えてしまいそうな時期になって大きな脚光を浴びるようになりました。

大阪同企連結成の前年にあたる1977(昭和52)年には、映画『はなれ瞽女おりん』(原作:水上勉、監督:篠田正浩、主演:岩下志麻)が公開され、第1回日本アカデミー賞優秀作品賞などを受賞して大ヒット映画になりました。

そして2020(令和2)年になると、最後の長岡瞽女といわれた小林ハルさんを描いた映画、『瞽女GOZE』(監督:瀧澤正治、主演:吉本実憂/子役:川北のん)が公開され、瞽女さんたちが培った伝統文化を顕彰する動きや、瞽女唄の伝承に情熱を傾ける健常者の方たちも多く出てくるようになり、今では演奏会が催されると大勢の人たちが集まるようになっています。

「七十一番職人歌合」瞽女と琵琶法師
(国立国会図書館デジタルコレクションより)

瞽女さんの歴史を概観する

瞽女さんが文献に登場するのは室町時代にまでさかのぼります。

1500(明応9)年頃成立したとされる、当時の職業図鑑と言われる『七十一番職人歌合(しちじゅういちばんしょくにんうたあわせ)』には、鼓(つづみ)を打つ盲目の女性が、同じく盲目の男性の琵琶法師と並べて載せられています。鼓を打ち鳴らしながら「曽我物語」を語るようすが描かれ、「瞽女」という漢字に「鼓」の文字が含まれているのは、そのあたりにも背景があるようです。

また、草履を杖に通して傍らに置いていることから、各地を巡り、路上で芸を披露していたことが想像できます。

江戸時代中頃に三味線が普及すると、瞽女さんたちはもっぱら三味線の弾き語りで門付け(かどづけ:人の家の前で演奏してお礼をもらうこと)をするようになり、居を構えて定住し、仲間組織をつくって親方の下で芸を磨き、集団で行動するようになりました。

ジェラルド・グローマ―は、著書『瞽女うた』(岩波新書)の中で、唄を聴かせて生計を立てるという道は、「自立への扉がかたく閉ざされていた女性視障者にとっては、まさに新しい夜明けであった」と述べています。

幕府は盲人に対して保護政策をとっていました。しかし人権の概念すらない時代ですので、当事者の権利を尊重しようという制度ではありません。

ジェラルド・グローマ―は同著の中で、夫を亡くした貧しい盲女と娘が、薬師如来を拝んだことで視力が回復したという奈良時代の仏教説話を取り上げ、当時は「盲女が糊口(ここう)に窮することが当然」と考えていた、「視覚障害者に対する世間の冷淡な態度は、反省、批判、改善の対象とはなっていない」、盲女が「嘆いているのは、障害そのものではなく、失明のため自分と娘は飢えを凌(しの)ぐことはできない」と3点を指摘し、「当然視された前提や空白がむしろ興味深い」と述べています。セーフティネットなど望むべくもなかった当時の日本社会の通念として、障がい者が頼るものはひたすら「慈悲」であったことを喝破(かっぱ)しています。

(注:ジェラルド・グローマ―氏の著述からそのまま引用した部分は「」を付けています)

芸能者への逆風をあげればきりがなく、江戸時代、諸藩の倹約令は農民から芸能の楽しみを引き離し、自由な旅を阻む御法度(ごはっと)は巡業を規制するものでした。明治になると芸人の取り締まりや、国全体を翻弄してきた戦争の災禍、そして、とくに戦後の農地改革は瞽女さんたちに宿と食事を提供してきた地主たちを没落させ、彼らが瞽女さんたちを招く力はそぎ落とされました。社会的に弱い立場の瞽女さんたちは、次々と廃業という形で消えていきます。

ラジオやテレビの普及、新しい歌謡の出現など、さらに逆風が吹いてくる中で、最後まで秩序を保ち、しきたりを守り、芸を磨き、人びとに芸能を提供し続けてきたのが、現在の新潟県で暮らしていた長岡瞽女と高田瞽女でした。

瞽女の組織

いつの世も、どの地域にも盲目の人たちは存在します。中世・近世では琵琶法師などの芸道を歩む盲人たちは自らを当道(とうどう)と称し、当道座という仲間組織を作っていました。幕府公認の自治組織で、検校(けんぎょう)、別当(べっとう)、勾当(こうとう)、座頭(ざとう)などの名称で官位を得ていたことが知られています。瞽女はこれらの集団に組み込まれていた地方もありますが、別に仲間集団を形成していたようで、両者の関係性は明確ではありません。

男性の場合は先に述べたようなピラミッド型の全国組織があり、座頭になるにもお金と試験に合格することが必要だったそうですが、女性はそこまで厳しくされることなく庇護(ひご)されたようです。

津軽三味線研究家の大條和雄(だいじょうかずお)さんの著書『絃魂津軽三味線(げんこんつがるじゃみせん)』(合同出版社)の中に、盲人保護政策の因として伝えられるのは、徳川家康の生母が眼病に悩まされたことに関係があるという記述があります。

また、長岡の伝説では、藩主の牧野氏に目の不自由な姫ができましたが、生まれを隠して家老の山本家の養女となり、成長して分家した後は瞽女頭(ごぜがしら)に任じられ、代々、山本ゴイと名乗りました。中越地方の瞽女を束ね、ちなみにゴイとは、位階の五位から来ているようです。

各藩は盲人たちが自活できるように保護の手を差し延べ、城下で屋敷を与え、税の免除や、吉凶慶弔の際に武家や富裕な町民、農民から冥加金といった施しものを集めることも許可していましたが、瞽女さんたちには、はじめからわずかな取り分しかなく、そういう特権も後にはさまざまな理由で規制されていきました。

「瞽女式目」
(「瞽女ミュージアム高田」提供資料より)

それぞれの瞽女集団は「瞽女式目」という、瞽女の由来や組織の掟(おきて)などが記された巻物を所持し、その内容には伝説や神話のような記述もありますが、瞽女さんたちは代々この巻物を大切に守り、妙音講(みょうおんこう)という、妙音天、すなわち弁財天をまつる寺院などで瞽女さんたちの集会を行うときには、この瞽女式目がまず初めに読み上げられました。

瞽女になって、まじめに修行さえすれば仲間どうしの助け合いの中で生きていけるしくみができていましたが、もし掟を破って仲間から外されると、なかなか元に戻ることはできません。親方全員に詫びを入れて許しを請う方法もありましたが、おおかたは「はなれ瞽女」となって、ひとりで生きていくより仕方がありませんでした。

なかでも最も重い罪が男性と関係を持つことで、瞽女式目の「不行跡(ふぎょうせき)の行為」にあたりました。

(次回に続く)

(2023/11/02)