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「瞽女(ごぜ)のいた風景」障がいのある女性の自立のかたち(その2) |わたしの歴史人物探訪

一人前になるまで

幼い子どもの目が不自由だと、その時代の親は世間から引き離して育てるか、かといってその他に多様な選択肢があるわけではありませんでした。

長岡瞽女の小林ハルさんは生後100日頃に白内障が原因で失明し、幼い頃は家の一番奥の、窓が二重になった寝間から外に出ることはなかったそうです。

高田瞽女の杉本キクイさんは、はしかがもとで5歳の時に失明し、母親から按摩(あんま)さんになるか、瞽女さんになるか、どっちがよいかと聞かれ、子ども心に瞽女になる道を選んだと話しています。

高田瞽女の例では、6~7歳で弟子入りし、7年経つと名替え(ながえ)といって芸名をもらい、この時、親方と三々九度の盃を交わします。名替えから3年経つと年季明け、年季明けから3年で師匠格となると姉(あね)さんと呼ばれ、弟子も取れるようになります。

高田の瞽女は、親方の中の年長者が「座元」となり、各々の親方は高田の町に家を構えていて、弟子はその養女となって、住み込みで修行するというスタイルです。

長岡の瞽女は、総親方の山本ゴイが城下に屋敷を構え、親方の資格を得た師匠は各地域に居て、それぞれの自宅で弟子を養成しました。弟子は通う者、住み込む者、師匠を自宅に呼ぶ者もいて、茶道、華道の家元制に似たシステムになっていました。

自然と芸風にも違いが出て、長岡瞽女は唄い方がりんりんとして野性的、高田瞽女の唄い方は抑揚がなだらかで、都会的なおしとやかさがあるといわれます。

瞽女さんのくらし

作家で元NHKのアナウンサーの下重暁子さんは『鋼の女(はがねのひと) 最後の瞽女・小林ハル』(講談社)で、小林ハルさんが暮らす新潟県胎内市の特別養護老人ホーム「胎内やすらぎの家」に何度も通って取材し、親方や仲間から受けたつらい出来事も含め、ハルさんの身に次々とふりかかってきた出来事を壮絶な人生の記録として紹介しています。

また、『瞽女さんたちの唄が聞こえる』(DVD版、監督:伊東喜雄、著作・製作:有限会社地球村)という1971(昭和46)年に撮影された記録映画では、高田で最後に一軒だけ残った瞽女の家で、親方の杉本キクイ、弟子で養女の杉本シズ、弟子の難波コトミの3人が一緒に暮らす様子をドキュメンタリーとして収めています。

高田の瞽女さんたちは、行き先やルート、泊めてもらう家がきちんと決まっていて、年に300日は巡業に出ていたそうです。しかし地主、庄屋といった制度がなくなると、瞽女宿を提供する家もなくなってしまいました。たまたま昔世話になった瞽女宿から久々に招きを受け、心を弾ませて旅に出る様子が紹介されています。

はさ木の並木道をいく杉本家の3人を写真画像で紹介しています。(©新潟日報社) はさ木は刈り取った稲穂をかけるために利用されるもので、新潟県特有の田園風景のひとつでした。

重い荷物を背負い、いくらか目の見える難波コトミが手引きとして先頭を歩き、その背にそっと手を当てながら杉本キクイとシズが順に続き、3人で歩いて旅する昔ながらの姿を映像は映し出しています。

瞽女宿の女将(おかみ)さんが心のこもったごちそうで瞽女さんたちをもてなし、夜になると村の人たちがやってきて瞽女さんの唄をたっぷり楽しみ、演奏が終わると、「少ないが」と言いながら食べ物やおひねりをにぎらせ、「達者でいてください」、「また来年も来てください」と口々に言いながら帰っていきます。

一生を農作業に明け暮れ、村から出たことのない人たちにとって、年に1、2度やって来る瞽女さんの唄を聴くことは、このうえない楽しみだったでしょう。

村の人たち

瞽女さんを受け入れる側の村の人たちは、目の見えない瞽女さんが峠を越えて、こんな山の中まで来られるのは神様に守られている、文字も読めないのに長い段物をいくつも知っている、どんな曲をリクエストしても答えてくれる、きっと何か不思議な力があるに違いないと、畏敬(いけい)の念を持って接していたようです。

村に着いて門付けに回ると、目の見えない瞽女さんたちの姿を見て、最初は怖がる子どももいますが、後を付いて回る子どもたちもいました。

演目で一番人気があったのが「葛の葉(くずのは)子別れの段」です。文楽や歌舞伎などさまざまな芸能で取り上げられる物語で、信太山(しのだやま:大阪府和泉市)に住む白狐が化身した葛の葉姫は、縁あって人間の妻となり子をもうけますが、やがて幼い子どもと泣く泣く別れるときが来ます。伝説ではこの5歳の子どもが後の陰陽師(おんみょうじ)、安倍晴明とされています。村の人たちはこの物語と瞽女さんを重ねて見ていたのかもしれません。

門付けで集めたお米は瞽女宿が買い取り、それを村の人はまた買い戻し、それを「瞽女の百人米(ひゃくにんまい)」といって食べると健康になる、子どもの頭がよくなると信じられていました。

「お蚕(かいこ)さま」に瞽女さんの唄を聞かせると、よく糸を吐くといって、瞽女さんたちを家まで引っ張っていきました。

そんな村の人たちの受け入れがあってこそ、瞽女さんたちは遠く険しい道をはるばるやって来ることができたのでしょう。

おわりに

最後まで瞽女さんが残った新潟の一部の地域と、その一帯の山村の人々は、瞽女さんたちを盲目の旅芸人というだけでなく、自分たちの生活に欠かせない娯楽、情報、それにご利益(りやく)をもたらしてくれる人、また自分たちの内緒(ないしょ)の話も聴いてくれる話し相手として瞽女さんたちと向き合っていたのだと思います。

しかし、日本が豊かになっていくにつれて農村社会は変わり、迷信めいたことは廃れ、芸能文化は移り変わり、そして瞽女さんたちの姿も歴史の中に消えていきました。

21世紀の現在「障害者差別解消法」、「女性活躍推進法」が施行され、そして2022(令和4)年5月の国会では「困難な問題を抱える女性支援法」が成立し、人権法制が積み上がっていくなかで、それほど遠くない昔に存在した瞽女さんたちと村人たちの姿は、現在の私たちが、女性の人権、障がい者の人権を考えるときに、ひとつの方向性を示してくれているように思えてなりません。

(2024/03/26)