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どこまでも透明な童謡詩人 金子みすゞ その1 |わたしの歴史人物探訪

◇はじめに
児童文学者の矢崎節夫さんがみすゞの実弟から預かった3冊の自筆手帳をもとに遺稿歌集を発表されるや、その詩歌、童話は多くの人びとを魅了し、すすんで小学校の教科書にも採用されている。
 3・11の大震災以降、テレビで繰り返し流された「こだまでしょうか、いいえ、誰でも」の一節も私たちの胸に焼き付いたし、流行語の様相さえ呈した。
 矢崎さんは、東京人権啓発企業連絡会(東京人企連)の広報誌「明日へ」に数年前、~金子みすゞさんのまなざし~と題して、いくつかの詩歌を紹介し「みすゞさんの宇宙」と呼んでその素敵な文学世界を語っている。
 金子みすゞ (本名 テル)の生涯を短くお伝えし、数多い詩からいくつか披露しよう。

◇幼年時代
矢崎さんたちの熱意で彼女の生誕100年目の2003年、山口県長門市仙崎の実家跡に「記念館」が開館、すでに来場者100万人を超えたと聞く。
 みすゞの父は、有能な経営者、上山松蔵が下関に本店を置く「上山文英堂書店」の中国(当時は清国)支店長だったが、彼女が3歳の折にかの地で急死する。
 松蔵の力添えで、遺族は仙崎の生家に書籍、文房具を扱う「金子文英堂」を営んだ。
 みすゞには兄と弟がいたが、母の妹が嫁いでいた松蔵との間に子が恵まれなかったことから弟、正裕は松蔵の養子に出される。
 しかし、優しい祖母と母、兄との4人暮らしは、穏やかな幸せに満ちたものだったと想像される。
 兄は家業を守るため小学校を卒業して店に入ったが、経済的な余裕も生まれたのだろう、聡明なみすゞは大津高等女学校へ進んだ。
 静かで、豊かな自然に囲まれた漁業の街、仙崎で彼女は繊細な感覚を育み、文章を綴る喜びを覚えていったのだろう。
 女学校の同窓誌「みさお」にいくつもの記事を載せたみすゞは、卒業時に答辞を読むほどの優秀さだった。
 戸籍上は従弟となった弟も頻繁に下関から来仙し、兄を交えて文芸教室のような集まりも開かれていた。
 後に、劇団 若草の創始者となった彼は家業の傍ら作曲も始めたというから、3人ともに芸術的な能力と嗜好を有していたのだろう。
 卒業した17歳のみすゞは店を手伝い始めるが、伴侶を病で亡くした松蔵の後添いに請われた母は前年、下関へと去っていた。
 が、義父となった松蔵が急病に倒れ、店の応対に暇ない母に代わって付き添いの看病を続けた彼女は、やがて兄が妻帯したこともあって母の元に移った。
 みすゞは20歳になっていた。

     金子みすゞが働いていた商品館跡の資料                      金子みすゞ顕彰碑

◇詩作、結婚、出産そして死へ
大正の中期には、日本でも子どもたちの健全な精神の発達を目的に、童謡、童話の創作が本格的に始まり、北原白秋、野口雨情、四条八十らによって雑誌が幾つか発刊されていた。
 彼らはまた後進の作家、詩人を育てようと自らが選者を務めて、雑誌への投稿を歓迎した。
 彼女は下関に住んだ頃から、次々に生み出される詩歌を手帳に綴り「金子みすゞの筆名で、それらを投稿し始める。
 たちまちに、特に、西条八十に認められ、多数が雑誌に掲載されていった。
 23歳になった彼女に義父の店の番頭格の男との結婚話が持ち上がって、父母の気遣いを察するみすゞは承諾するが、弟は猛反対したという。
 文芸を愛する彼には、商才のみが恃みの男を姉の伴侶にふさわしいと、とても思えなかったのだろう。
 店の2階に新婚生活を始めたふたりだが、弟は夫との不仲が高じて家を出てしまう。
 夫の身持ちの悪さも加わって、義父から離婚を勧められるが、既に身ごもっていたみすゞは、追われる彼に従って店を出た。
 その年の11月、女児をもうけたが、同じ下関で玩具や食料品の商いを始めた夫の放蕩はおさまらなかった。
 彼から淋病を移された彼女はやがて床に伏しがちになる。
 下関駅に西条八十を訪ねたり、詩歌の創作や詩人仲間との手紙のやり取りをよほど苦々しく感じていたのか、弟が不在となるとみすゞは夫から一切の文芸活動を禁じられてしまっていた。
 病に苦しみながらも詩作を続けたい彼女は、ついに離婚を決心するが、幼子をわが手で育てたいと願うみすゞに夫は冷たかった。
 昭和5年(1930年)3月、写真館に赴き最後の一葉を撮る。
 せめてもの姿を子に残したかったのだろう。
 その夜、母の横に眠る娘に「かわいい顔して寝とるね」と声を掛け、2階の自室に上がったみすゞは大量の睡眠薬を仰ぎ、降りてくることがなかった。
 親権が夫にしか認められなかったこの時代、遺書には「ふさえ(娘)をこころ豊かに育てたい。だから、母ミチにあずけてほしい」と命がけの懇願があった。

(2013/05/20)