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過酷な運命を清純に生きた 細川ガラシャ |わたしの歴史人物探訪

最初の悲劇

 キリスト教に入信して洗礼名ガラシャ(ラテン語で神の恵みの意)本名玉子は、皆様ご存知明智光秀の娘。
 主となるべき恵那、明智城は強大な美濃の斎藤氏に奪われ、若き光秀は諸国をさまよった。
 が赤貧の暮らしの中にも軍学、築城方、銃術を修めた生来明敏な彼は玉子が物心つく頃既に織田信長に重用され、やがて近江、坂本十万石の領主へと出世する。
 主君の将軍推戴を父とともに成功させた細川藤孝の長男、忠興との結婚は懇意な両家をさらにとの信長のはからいだ。
 二人は同い年の十六歳、細川家は小なりといえども長岡京、その先で桂川に注ぎ込む小畑川沿いの勝龍寺城主、後に丹後を平定し宮津へと移る。
 本能寺の変が報じられたのは玉子十九歳、夫が光秀の組下として出発する直前のことだ。
 信長の家臣たちは北陸、中国、四国へと展開しており、盟友、家康は堺の街を見物中だが、来るべき彼らとのたたかいに備え、光秀は当然のこと細川に助力を乞うた。
 しかし石橋を叩きに叩き、天下の趨勢を見極めて渡らねば細川家の存続は危うい。
 義父は剃髪隠居して、夫は髻(もとどり)を切って主君の喪に服し光秀の懇願を拒んだ。
 重臣たちは反逆者の娘、玉子を離縁して明智家へ帰すかさもなくは切れと迫る。
 美貌の玉子を熱愛し異常なほどの執着を持ったと伝わる忠興は、彼らを説き伏せ「天橋立」の北北西五十キロ程離れた「味土野(みとの)」の山中に彼女を幽閉した。

洗礼を受ける

 毛利への密使を捕らえ、いち早く変事を知ったのは岡山に織田主力軍を指揮する秀吉。
 ほぼ仕上がっていた高松城水攻めを城主の切腹で決着し素早く兵を引いた。世に言う「中国大返し」の始まりだ。
 急行した姫路城で軍備を整え直した秀吉は、一路京へ疾風(はやて)のごとく寄せる。
 「西国街道」(国道一七一号線)は高槻を過ぎ水無瀬から山崎へ向かう。
 後年、美濃大垣を発した東軍と近江からの西軍が「関が原」の隘路でぶつかるように、淀川西岸を上る大軍を京から迎え撃てば、山と大河に挟まれた狭隘の地「大山崎」が戦場になろうとは光秀とて承知していた。
 が空しく加勢を待って時を過ごし、街道沿いの諸将も従えた秀吉に要所「天王山」を押さえられて万事は休した。
 光秀は勝龍寺城から坂本へと敗走する中、伏見、小栗栖(おぐるす)に果てる。
 天下を取った秀吉は細川懐柔の意もあろう、二年ほどの後に玉子の帰城を許した。
 大阪屋敷へと移った玉子の心は、しかしどれほど傷ついていたことだろう。
 幽閉生活の間も彼女を支え続けた公家出身の侍女、佳代はキリスト教の信心篤く、夫と親しい高山右近も熱心なキリスト教大名だった。
 まして新居は教会に程近く、逆臣の娘と蔑まれたであろう玉子がキリストの教えに強く傾いていったのは十分頷ける。

最後の悲劇

 秀吉が死んだ。
 幼い秀頼の後事をあれほどに託したところで、政局は日に日に険しさを増してゆく。
 さまざまな駆け引きの後、家康は会津、上杉討伐の大義名分を掲げ誘いの隙を画した。
 豊臣の恩顧か徳川の力かに揺れる武将の軍勢も率いて大阪を離れたのだ。
 行を共にする夫、忠興は「玉造」の屋敷に残す玉子にこう語る。
 「いずれ三成は兵を上げ、玉子を人質として大阪城へと強要しよう。取られれば玉子への溺愛ぶりを知る家康は細川に疑いの目を向ける。かといって何れかへ逃がせば、三成は細川の参陣が止むを得ずでなく家康への忠誠からと見抜こう」「人質になるは適わず、逃げもならぬ」と。
 父光秀が信長を討った時、玉子は切られるか坂本へ戻されるかの二者択一でなく「味土野」へと隠され夫から「生」を与えられた。
 今、人質となるか逃げるかの二者択一でなく、屋敷に留まり夫から「死」を与えられようとしている。
 明智の身内総てを失ってもの自分の「生」とは、女の身ゆえ自らの意思で何も果たせなかった、その結果に過ぎないのか、玉子は今更ながらに唇を噛む。
 先年、かの高山右近がキリストの教えを捨てず追放されたことを玉子は知っていた。
 ヨーロッパ交易の利益か、キリスト教弾圧かに揺れた晩年の秀吉に刑死を命ぜられ、殉教の地へ旅立つ二十六名におよぶ信者たちの清らかな表情も彼女は洩れ聞いていた。
 「夫にはキリストの如く仕えよ」の聖書の言葉に従い、武将の正妻として「自らの意思」でこの「生」を絶とう、玉子は決心した。
 夜陰に紛れ、逃れる大名の妻女もあったが、三成の手勢が屋敷を囲んだ時、神の教えによって自害できぬ玉子は従容として胸を突かせた、三十八歳だった。
 三成はあまりに潔い彼女の最期が自らへの反感を高めると恐れ、以後人質を要求しなかった。
 玉子の死は徳川に組した諸侯の結束を固め、関が原の戦局を有利に導いたといわれるが、その話は時を経てなお無性に哀しい。
 ガラシャの墓はその日亡くなった忠臣のそれらとともに、今も東淀川「崇禅寺」にある。

(2012/11/28)