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悲劇の武士を巡る女性二人 巴御前と静御前 その2 |わたしの歴史人物探訪

巴御前とは

義仲の墓に寄り添って眠る巴の塚

平家物語第9巻に突如、巴が登場します。
本文を紹介しよう。物語第9巻「木曾は信濃を出でしより、巴・山吹とて二人の美女を具せられたり。山吹は労り(病い)あって都に留まりぬ。中にも、巴は色白う髪長く、容顔まことに美麗なり」とありますが、容姿と裏腹、一騎当千の強者というのです。激しい戦の中も彼女は義仲の傍を離れず。義仲は乳母の子で兄弟のように育った今井兼平との「死ぬはともに」の約束を果たそうと琵琶湖畔へ。兼平と行き逢えたとき軍勢はすでに3百騎、戦いに戦って僅か7人になっても巴は意気けんこう軒昂、討たれもせねば逃げもしない。義仲は巴を愛していたのだろう、ここに至って巴を諭す「今となって自分は討死するか、自害するばかりだ。その折、女性を伴っていたとは悔しいではないか」。

巴の塚

すると巴は義仲に「最後の戦いぶりを見せて差し上げる」と。そこへ屈強な敵の一団が。一人の豪の者に並んで組むと見るや馬から引き落とし、自らの鞍に押し付け、動けもしない男の首を切って捨てたというのだから、まさに鬼神の業です。
そして鎧を脱ぎ捨て、東へ去ったと。異説はいくつもあって、尼となって、膳所にある「義仲寺」に義仲を弔ったともいわれます。
巴の塚が義仲の墓に寄り添っているのは、後世の人びとの二人に寄せる思いの表れなのでしょう。

静御前とは

いったい「御前」とは、白拍子と呼ばれた舞や歌を生業とする女性を指すようです。巴や静はそうした女性で、武将の側室として身の回りの世話をやいたのでしょう。平家一族を討ち果たし、敵の大将親子を引き連れて東へ向かう義経を、頼朝は寸前の「腰越」に留め置いて鎌倉入りを許しません。
何故頼朝は平家軍殲滅(せんめつ)第一の功労者、義経にこのような態度をとったのでしょうか。真相は謎ですが、いくつも説があります。一つ、平家滅亡後、鎌倉の許可なく官位を受けたのは反逆行為。一つ、物語第11巻にある「逆櫓(さかろ)」の諍(いさか)い。大坂、福島から屋島へ船出しようとした時、北風が強まり、評定が始まります。頼朝の家臣、梶原景時は万が一に備え、引き返せるよう船に逆走用の櫓の取り付けを進言するが義経は一蹴しました。引くことはないと戦っても、形勢によって退却はあろう。しかし、はなから逃げることを考えるとはなにごとか、貴公たちの船には付ければ良かろうが私は結構と。梶原も返す、優れた大将は引くも考え、身を全うして敵を滅ぼすもの。それは猪武者というべき、と。戦は攻めに攻めて勝つのが快き、義経はあざ笑う。嵐の海に5艘で船出して義経の奇襲。遅れて梶原が四国に到着した時、戦は終わっていました。面目を失った梶原は義経を憎み、頼朝に讒言(ざんげん)し続けたと。一つ、頼朝は決起以降、細心の注意を払って武家集団を配下に取り込み、飴と鞭を用いながら、その団結と忠節を強めてきた。
今、領地も直属の兵も持たない、いわば雇われ大将だった義経をどう扱い、遇すべきか難しい判断を迫られていました。独断行為を咎めて即刻死罪というわけにもゆくまい。が、京へ追えば義経は何らかの反逆行為に走ろう、それを待って処分しようと考えるのも無理ないか。義経の異心無きことを切々と訴える書状に、頼朝は振り向きもしなかった。
今はこれまで、都に戻った義経は法皇に迫って頼朝討伐の宣旨を出させるが、もはや兵は集まらない。そこへ頼朝は「土佐坊」という刺客を送りこんでくる。
ここに静が登場する、本文「静と言う女を寵愛せられけり。静、傍を片時も立ち去ることなき」と。土佐は「宿願の熊野詣に来たのだ」と証文を書いて時を稼ぐが、聡い静の機転の行動で義経を襲う計画を見破り、見事な返り討ち。
これだけが物語の伝える静だが、先へ進もう。
こうなっては京に留まれもせず、またもや都が戦場と化すのを避けたい法皇は九州へ下向したい意を容れ「義経の下知に従うべし」との「庁の御下文(みくだしぶみ)」を与えた。しかし、当たるところ敵なしだった義経に、あってはならない不運が襲いかかる。尼崎を出た船は西からの強風にあおられ難破、大坂、住吉の浜に。郎党も「ここかしこの浦々島々にうち上げられて、互いにその行方も知らざりけり」。仕方なく吉野山から奈良へ、しかし、いずれも法師たちに攻められ、京に潜伏した後、山伏に姿を変え、北陸路を辿り奥州へ下ったと簡単な記述で、女性たちは住吉に捨て置かざるを得なかった。琵琶法師の「語り」のための異本「八坂本」は静を吉野に伴ったと伝えられる。
室町、南北朝時代の作とされる「義経記」や鎌倉幕府の中期までの記録である「吾妻鏡」の叙述を参考に、その後の静を少し語ります。
吉野山でこれ以上の同行は困難と、義経は多くの金品を与え、伴を付けて京の母の元へ送り出しますが、男たちはすべてを奪い、静を置き去りにしました。吉野の蔵王権現の人びとが見かねて都へと送り届けますが、すぐさま頼朝の知るところに。鎌倉へ送られた静を厳しく詮議したところで、義経のその後の動向は知る由もない。頼朝の妻北条政子は、かねて名高い白拍子、静の歌と舞を是非にと所望します。鶴岡八幡宮に先祖を祀り、末永い源家の繁栄を祈念する日、長く拒み続けてきた静は舞台に上がります。

静が義経を暴いながら舞った
古岡八幡宮の舞殿

がしかし、「吉野山峰の白雪踏み分けて 入りにし人のあとぞ恋しき」そして「静や静、しずのおだまきくり返し 昔を今になすよしもがな」と続けて歌い、舞ったという。本歌取りの歌であるが、主旨は「行き別れた義経を恋い慕い」「しずの布を織る麻糸がたゆまず繰り出されるように、くり返しわが名をあの人が呼ぶ幸せだった昔を、今に戻せたなら」と。
「このような日に義経を恋い慕う歌とは何事か」とひとり怒る頼朝を除き、場の人びとは等しく、深く胸打たれた。静はこの時妊娠していたが、生まれたのが男子であったため児の命は即座に奪われました。
そういえば、先に人質となっていた義仲の長男、義高は頼朝の長女大姫を妻として、仲睦まじかったという。義父、義仲の死を知った彼女は、一計を案じて夫を逃がそうとするが捕えられ、処刑されてしまった。大姫は今、静にわが身の悲哀を重ね、彼女を憐れみ優しく接したと「吾妻鏡」は伝える。

おわりに

冒頭申し上げたように、物語にはさまざま異本が存在するし、軍記物の性格の濃い「源平盛衰記」もその一つとみられます。物語の成立を鎌倉時代の初期とするなら異本や、相当の年月を経て成立した「義経記」「吾妻鏡」などの一部の叙述が物語を参照して、ある部分を無視し、簡便にとどめ、ある部分を拡大、想像を交えて膨らませたのは「書」のめざすところで当然でしょう。「平家物語」の作者は義仲、義経を美しい女性との交情を添えることで僅かながらも慰めようとしたのでしょうか。
二人の無念な最期を寂寞の、水墨の世界に描くには忍びなかったと。後世の作者はその意を汲み、この二人の美女に憐れみを込めて書き継いだに違いありません。

(2013/10/17)