シリーズ

悲劇の武士を巡る女性二人 巴御前と静御前 その1 |わたしの歴史人物探訪

はじめに

今回は、平家滅亡の立役者でありながら、あっという間に奈落の底に落とされた武将、源義仲と義経の若すぎる晩年に、ほんのわずか登場する巴御前と静御前を紹介し、「平家物語」の作者の想いの一片も探ってみます。

源平の争いとは

平家物語(以後「物語」とする)には幾つか異本は存在していますが、いずれも都とその周辺、宮廷と平家一門にかかわる人びとを中心に語られるし、源平の争いに直接関係のない、さまざまな挿話もその特徴です。  それ故に、源頼朝とその弟、義経など鎌倉を中心とする勢力と、信州木曾を地盤とした義仲がどのような経緯で相対せねばならなかったのか、物語を離れ少々述べておきます。  平清盛が政治の実権を握った結果は、関東甲信越でも平家一族に従う勢力に領国を侵食されたので、旧領主たちの不満は募っていました。娘、徳子が産んだ高倉帝との男子が強引に東宮となされたことで、皇位への望みを絶たれ、悶々の日々を過ごす後白河法皇の子、以仁(もちひと)王に源頼政が近づきます。反乱は「宇治川の合戦」であっけなく終息しますが、親王が生前、各地の豪族に発した平家追討の令旨(りょうじ)は歴史を一歩進めることとなりました。「平治の乱」の後、清盛からきわどく生存を許され、伊豆に逼塞(ひっそく)する頼朝は義父、北条時政のほか、在地の豪族を従えて立ちました。「石橋山の合戦」で敗北を喫したものの危うく房州へ逃れて再起をはかり、やがて関東諸国をほぼ手中に収め、鎌倉を拠点とします。   頼朝蜂起(ほうき)に恩を仇で返された清盛は激怒し、3万の兵を関東に差し向けました。駿河の国、富士川西岸に達した平家軍は街道沿いの兵を加えて7万となりましたが、対する鎌倉勢、20万との情報にまず怯えます。さらに坂東武士の何をも恐れぬ戦いぶりを吹き込まれ、すっかり肝を冷やした平家軍は戦わずして既に敗れるごとしでした。水鳥の羽音を襲撃と取り違え、何もかもを放棄したまま総崩れとなります。

義仲館資料館の義仲と巴御前像

しかし、この戦いの主力軍は甲斐の源氏で、駿河、遠江、甲斐の一族は味方であっても、この時点で頼朝に隷属(れいぞく)していませんでした。勝ち戦いの勢いに乗って京へ攻め上りたいものの、関東の地盤固めは急務で、頼朝は鎌倉へ戻らざるを得なかったのです。 一方、同じく令旨を受けた義仲も信濃に挙兵し、越後から進んだ平家勢を破りました。甲信越にも勢力を伸ばしたい頼朝には、その義仲が煙たい存在となります。義仲もそれを察し、もっぱら北陸をめざしました。 しかし、服するのを拒んだ頼朝との戦いに敗れ保護を求める叔父を救ったことで、鎌倉と対峙することとなってしまいます。10万の兵で侵攻してきた頼朝に、義仲は長男を人質として和を結ばざるを得なくなりますが、その結果は心置きなく北陸への進出を企てられたのでした。

埴生護国八幡宮の義仲騎馬像

今、関東、北陸両面から脅かされる平家首脳はまず、義仲を打ち破ってこの方面を安定させ、後に全力で鎌倉を叩こうと考え、必勝を期し今回、10万の兵で北陸路を進む平家勢に、倶利伽羅(くりから)峠で義仲が仕掛けた奇襲は見事に決まります。暗闇の崖上、逃げ場を失った7万の平家の兵士と馬が谷底を埋めつくしました。ここからの一連の戦いに大半の正規兵を失った平家軍は戦闘能力をほぼ喪失したと言って良いでしょう。街道の諸勢力も率いて一気に京をめざす義仲軍に山門も味方すれば、平家一門は都落ちせざるを得なかったといえます。京へ入り朝日将軍の称号を賜った義仲を頼朝が快しとするはずもありません。

義仲の没落

2012年のNHK大河ドラマは「平清盛」でしたが、ここで後白河天皇、清盛、頼朝の関係について若干述べておきましょう。  およそ、後白河は歴代中で指折りの度胸と鋭い頭脳、行動力を備えた帝でした。清盛は彼より10歳ほど年長で後白河が幼少の折から接していましたから、その権謀術策に時には怒って実力行使もしましたが、多くはなだめ、威嚇(いかく)し、その意に沿ったりしながら逆に十分利用もしたのでした。いわば痛み分け、つかず離れずの間柄といえるでしょうか。頼朝は後白河より20歳の年下で遠い伊豆、鎌倉から彼の言動を観察していました。   そして常に距離を保って、要求するものとされるものの価値を冷静に判断、策を講じました。奥州藤原氏討伐後の1190年、頼朝は漸く上京し、初めて後白河と面談、宮廷と鎌倉の関係の調整と調和をはかってほぼ両者満足の妥協案をまとめ上げました。が、後白河が彼を上回るほど老獪(ろうかい)だったのは「征夷大将軍」の称号を頼朝がどれほど欲しているか百も承知ながら、ついに授けることなく崩御されたのでも明らかでしょう。  さて今、都落ちの道づれを辛くも逃れた後白河法皇は比叡山から復帰し、4歳の四の宮を後鳥羽天皇に立てて実権を握ります。   物語には、ここから入京後の義仲について揚げ足取りのような冷ややかな挿話が続きます。確かに木曾の山中に成人し、おおらかな性格の義仲は、京の公家衆や今や貴族となり得た平家一族に近い人びとに何とも野卑、野蛮と映ったのでしょう。加えて入京が、見舞われていた大飢饉と重なったのも不運でした。兵士たちは食せねばならず、略奪行為は横行しました。こうした事情も重なり、義仲は極端に評判を落としてゆきます。後白河は彼を遠ざけようと、平家を追討し神器を奪回せよと命じました。讃岐、八嶋(屋島)に勢いを回復しつつある平家が東上を目ざすとの報せに、義仲は出兵し備前水嶋から船出するが、海戦は平家の得意とするところ、あっけない敗戦の憂き目。「叔父が法皇に讒訴(ざんそ)している、戻られたし」との報に急ぎ兵を都に返し、義仲軍の狼籍は勢いを増しました。後白河は密かに鎌倉へ義仲追討を要請し「院は木曾殿に不興」の噂が広がれば畿内の勢力を中心に離反は続発する。怒った義仲は「法住寺合戦」で法皇御所を襲撃し、院を五条の内裏に押し込めました。が、再度平家討伐に出発しようとする義仲の元に、鎌倉軍数万すでに美濃、伊勢に到達との報せ。急ぎ京への入り口、宇治橋を落とすも、裏切りはさらにまして軍勢は整わず、義仲はみじめなたたかいに臨まねばならなかったのです。

義仲寺 木曽義仲の墓

資料館がある義仲寺(滋賀県大津市)

(2013/09/17)