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「万葉集」の華 「額 田 王(ぬかたのおうきみ)」 |わたしの歴史人物探訪

はじめに

2010年には、建都1300年を迎えた大和の国、奈良では盛大な催しが企画され、多くの観光客が訪れました。 史上に名を残す女性を取り上げてきた「歴史人物の探訪」の掉尾(ちょうび)は、それにもちなんで「上古代」にきらりと光る「額田王」を紹介しよう。 額田王は「万葉集」に遺された11首ばかりの詩歌の作者として評価を集める他は、大海人皇子(おおあまのおおじ)の后(きさき)の一人で、十市皇女(とおちのひめみこ)の母として知られるに過ぎない。 彼女がどのような女性で、どんな時代を生きたのか、和歌のいくつかを取り上げながら探ってみよう。

額田王の生きた時代

641年、父の舒明天皇(じょめいてんのう)が崩御(ほうぎょ)されると皇太子、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は皇后である母を皇極天皇(こうぎょくてんのう)に立てて、飛鳥の豪族たちとの摩擦を和らげようとした。 時を50年ほど遡(さかのぼ)る聖徳太子が叔母を日本初の女帝、推古天皇に戴き、自らは摂政として政務を執(と)ったのに倣ったのだ。 が、中臣鎌足と謀(はか)った「乙巳の変(いっしのへん)」で蘇我入鹿(そがのいるか)を亡き者にした後も帝位に就かず、叔父を孝徳帝(こうとくてい)とした。 そして彼が亡くなると再び母を斉明天皇(さいめいてんのう)に立てたのは、皇太子の身であればこその自由、敏速な活動を欲したからに違いない。 長く、近しい関係にあった朝鮮半島の「百済(くだら)」は新羅(しらぎ)に滅ぼされ、皇子は百済宮廷周辺から知識人や技術者を多く招いて琵琶湖畔にも住まわせた。 その結果、この地方の農工業は急速に発展したといわれている。

妹背の里にある銅像

大海人皇子の銅像

その力も背景に667年、大津に遷都して、律令に基づく中央集権支配の確立を急ぐ。 が、漸(ようや)く即位した皇子(天智天皇(てんじてんのう))は3年後の671年、古代史上の一大改革「大化改新(たいかのかいしん)」の半ばで亡くなる。 帝の病が重篤と知った実弟の皇太子、大海人皇子(おおしあまのみこ)は、出家すると称して吉野の山中へ去った。 兄の子、大友皇子(おおとものおうじ)を天皇に立てたい旧帝周辺からの危険を避けただけでなく、近江偏重の急激な革新政治を嫌う飛鳥在住豪族たちの欲求に応えたのだ。 結果は甥と叔父、近江と大和の血で血を洗う戦い「壬申の乱(じんしんらん)」へと進む。 皇太子と額田王の子で、大友皇子(弘文天皇(こうぶんてんのう))の后だった十市皇女がどれほどの悲嘆にくれたか想像に難くない。 乱で夫を失った皇女は父の元に戻ったが、678年、急逝する。 死因は謎といわれ、彼女をことのほか愛されたと伝わる父、天武帝(てんむてい)の嘆きは激しかった。

額田王とは

彼女は朝鮮半島出身者の末裔(まつえい)で、滋賀、竜王「鏡山」の麓、鏡作りの技術者集団の長の娘とする説が一般的だ。 その出自から皇太子に嫁いだが、抜きんでた作歌能力を持つことから天皇の代理となって歌を神々に捧げ、宮中の人々を鼓舞する「公的な歌の詠み人」として近江朝廷にも仕えた。

雪野山大橋の欄干にある額田王像

1、「君待つと 我(あ)が恋ひ居れば 我がやどの 簾(すだれ)動かし 秋の風吹く」 「恋しい人を待っていると、簾がかすかに動いた『来られたわ』と心ときめかせれば、秋風のしわざ」筆者の拙(つたな)い口語訳はお許しあれ。 中国には、南北朝期(西暦430~580年頃)の女性の作とされる「夜相思」と題した短い詩がある。 「風吹窓簾動 言是所歓来」 (風吹いてそうれん動く いう是れしょかんのきたれるかと) 「夜、貴男を思っていると窓のすだれが動いた、恋しい方がいらしたかと見れば、ただ風が吹いているだけ」 額田王が大陸からの文物に接して長じたことは、この作品から想像できる。 古詩を知らなくとも同様の発想はあり得ると承知してなお、それに通じていたとしたいし、この歌は中国詩の翻訳として詠まれたと考えてよいかもしれない。 後に壬申の乱が起こることから、天智、天武の兄弟間に彼女を巡る確執があったと想像するのは小説的であれ、事実からは遠いのだろう。 この歌が「近江天皇を偲(しの)ひて作る歌一首」の詞書きを持つのは、そうではなく、あまりによく知られた次の歌があるからだ。

2、「あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る」  額田王
???? 「紫草(むらさき)の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 我れ恋ひめやも」  大海人皇子
皇太子と元のお后の間に交わされたこの贈答歌にはいくつもの解釈があるが「万葉百歌」の著者、池田弥三郎博士の説は面白い。 668年に即位した天智天皇は久しく絶えていた、野に出でて薬草などを摘む「薬狩り」の宮中行事を、現在の八日市近く「蒲生野(がもうの)」で開いた。 その後の宴席でのやりとりとするのだ。 額田王も40歳を過ぎ、酔いに任せた皇太子の腕を振る武骨な舞を「恋する人に袖を振る」と見立て「野を行く貴男が私にそんなに袖を振れば、人が見るではありませんか」とからかう。 東宮は直截(ちょくせつ)ながらうまく返す「紫に映える若々しい貴女が、人妻になった(兄に侍している)からといって憎いと、愛さずにいられましょうか」。 宮中の要人同士、成熟した男女の修辞を尽くしながらも当意即妙、開け広げなやりとりに、宴席はどれほど盛り上がっただろう。

3、「熟田津(にきだつ)に 船乗りせむと 月まてば 潮もかなひぬ 今は漕(こ)ぎ出(い)でな」 この歌の背景にも諸説あるが、ここは無難な線で進めよう。 661年、斉明天皇を奉じて百済救済に出発した船団は松山、道後の近く「熟田津」に船泊りした。 常識的に、満月であろうと夜間の航行は危険だから「月の出を待った」のではなく、月齢を数え、西下するに適した潮の流れを待ったのだ。 「潮は絶好、さあ漕ぎ出そう」と微妙な字余り「今は漕ぎ出でな」が、颯爽(さっそう)、溌剌(はつらつ)とした船出を見事に歌い上げた。

4、「三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや」 同意の長歌に添えられた反歌で「大和の国の三輪山をいつまでも見ていたいのに、離れ行けばどうしても隠すのか、せめて雲だけでも分かっておくれ、こんなに隠してよいのかと」。 標高470㍍ほどの三輪山は、その秀麗な山容から日本最古ともいわれる「大神(おおみわ)神社」のご神体とされて大和の国を守っている。 近江への遷都で、国境を越える旅に就いた今「別れたくない」と「山」に繰り返して哀惜の情を表し、大和の守り神を慰撫(いぶ)する公の行事に披露された歌と考えるべきだろう。 が、この歌はその目的を離れても、三輪山への切々たる心情を余すことなく伝える秀歌だと思う。 4年後に朝廷は再び大和に戻り、710年の奈良遷都へと続いた。

大神神社(奈良県桜井市三輪)

天武・持統天皇陵(明日香村)

おわりに

5、「いにしへに 恋ふらむ鳥は ほととぎす けだしや鳴きし 我(あ)が思(も)へるごと」
686年に天武帝が亡くなられると東宮、一人息子の草壁皇子を失っていた皇后はその子、直系の孫(後の文武天皇(ぶんたけてんのう))が成人するのを待とうと、自らが持統天皇(じとうてんのう)に立った。 この、皇位継承が不安定な状況下、持統帝を母としない天武天皇の子、弓削皇子(ゆげのおうじ)は不遇な、もっと悪いことに、場合によっては命をも危うい立場におかれていた。 その彼が、吉野の離宮から「泉の上を騒がしく鳴いて飛んでいたのは中国の故事にいう、あの、いにしえを懐かしむ鳥なのでしょうか」と歌を贈ってきた。 「貴女も昔を懐かしむだけで、ひっそりお過ごしなのか」と少々謎掛けめいていた。 皇子の境遇を知る額田王の詠みくちは静かな優しさに満ちている。 最晩年の作とされるこの返歌、何度か声に出して読まれるのをお勧めする。 詠み手の柔らかな息遣いまで、きっと感得されると思うから。 「そう、いにしえを恋して鳴くのはほととぎすよ、私がとても昔を思うから、同じように懐かしむ貴男の元で、そんなに鳴いていたのね」と。 貴男がまだ幼く、お父さまも若かった頃、そして娘、十市の生きていた「いにしえ」を私も恋している。 激動の時代を生きた彼女と今、新たな難局を生きる皇子、この時、額田王の脳裏に去来したのは「いにしえ」のいったいどんな光景だったのだろう。

うま酒 三輪の山 青丹よし 奈良の山の 山のまに い隠るまで 道のくま い積るまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見さけむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや (反歌) 三輪山を しかもかすか 雲だにも 心あらなむ かくさふべしや

なつかしい三輪山よ、この山が奈良の山々の間に隠れてしまうまで、また行く道の曲がり角が幾つも幾つも後ろに積もり重なるまで、充分に眺めていきたい山であるものを、たびたび振り返っても見たい山であるものを、無情にもあんなに雲が隠してしまってよいものだろうか。 名残惜しい三輪山をどうして雲があんなに隠すのか。人はともかく、せめて雲だけでもやさしい情があってほしい。あんなに隠すべきであろうか。

 

(2014/11/04)