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正岡子規の交遊録 その1 |わたしの歴史人物探訪

はじめに

司馬遼太郎の長編「坂の上の雲」の準主役、正岡子規を取り上げる。
1968年から足かけ5年、新聞に連載されたこの小説は当初から反響を呼んだ。
彼の文学的功績やその評価を探ろうとすれば膨大な紙面を要し、それは筆者に可能な作業とは到底考えられない。
小説やテレビでは主題からして同郷、幼馴染で日露海戦に活躍した秋山真之との交情を中心に語られていたから、本稿では子規と夏目漱石の交友の少々を語ろう。
今、手元に岩波文庫版「漱石・子規(往復書簡集)」がある。
伊予松山藩士の長男に生まれた子規はわずか5歳で父を失ったが、母の父は藩校の儒学者で、幼児から漢籍に接して温かな、まず恵まれた環境に長じたのは確かだろう。

夏目漱石生誕地の碑

一方、漱石が江戸の旧名主の家に6人兄弟の末っ子に生まれた時、父はすでに54歳で、体裁が悪いと考えたか、暮らし向きに窮していたか直ちに里子に出され、3歳で養子縁組させられた。
養家の生活破綻で7歳の折実家に戻るが、夏目家に復籍するのは子規と知り合った頃になってからなのだ。
著名な英文学者になり得た後の漱石が、復籍に際して差し入れた一札を凋落(ちょうらく)した養父から、ゆすられるように買い戻したいきさつは、晩年の小説「道草」に苦々しく描かれている。
このように出自や成長環境の異なる同い年の二人は、17歳で入学した東京大学予備門(後に第一高等中学校と改称、その後の第一高等学校)から同級だった。
予科を卒業し本科に進んで間もなく、22歳の1月頃から始まった交友のきっかけは落語という共通の趣味だったと漱石の回想があるよ うだが、心を開き合った友情がそれだけで形成されていったわけはない。
付き合いが始まって間もなく、子規は突然の喀血に襲われる。
彼が得意満面に「七草集」を学生仲間に発表した直後の出来事だった。

柳橋に残る句碑

七草とは漢詩、漢文、和歌、発句(俳句)、謡曲、論文、擬古体小説の7種類の文体で構成した文集という意味だ。
漱石もその性格を「何でも大将にならなければ承知しない男」と評した、卓越した文章力を有する若者の自己顕示欲の作物だろう。
それだけに喀血から予想される、当時は死の予兆の他、なにものでもない結核への危惧に、本人はもとより漱石も深刻な衝撃を受けたのだった。
子規を見舞い、診察した医師のもとを訪れた後、漱石は初めての書簡を送っている。
医師を不注意、不親切と怒る彼は大病院の名を挙げ、入院して重い病に至らぬための万全の加療を勧めた。母のため大きくは国家のためにそれは必要と諭す文面は優しい心配りに満ちている。

好敵手の二人

予科時代から英語力のずば抜けた漱石は首席を通した秀才だったが、子規は英語を苦手にしたという。
学校の成績に引けはとっても漢詩、漢文、短型詩に絶対の自信を持っていた子規だが、先の「七草集」への漱石の感想が素晴らしい漢文で書かれたのに驚かされる。
さらに漢文の、漢詩まで添えられた漱石の房総紀行文に接し「一千万人に一人の秀才の君は我が最良の友」と率直に喜ぶ。
漱石とて子規の持つ感性の鋭さに一目以上置いていたし、俳句は終生子規を師と仰いで添削と批評を求めた。
論理、思索派、勉強家、内向型漱石に対し、直観、直進派、天才肌、外向型の子規というべきか。
翌年帝国大学に進んだ二人だが、創作や文芸批評に傾く子規は大学を去り、やがて日本新聞社に入社、母と妹を根岸(JR鶯谷駅の北)に呼び寄せ、活発な創作活動に突進む。
漱石は大学院に進んで学者への道を歩み、英語教師として生計を立てた。
しかし失恋事件もあったといわれるが、東京での勤務が本意でなかったか突然、都落ちを欲したかに松山の中学校に転任する。
日清戦争が始まると、子規は病身ながらも何がしかの献身を欲したのだろう、満州への従軍記者に志願する。
しかし漸く満州に到着できたとき戦は終結していた。
帰国する船上で大喀血に見舞われた子規は、神戸の病院に臥さざるを得なかった。
やがて養生のため松山に帰国した彼を漱石は下宿「愚(ぐ)陀仏(だふつ)庵(あん)」での同居に誘い、即日子規は引っ越して来たのだった。
若い頃、漱石は子規の作品や創作態度を厳しく批判したし、子規も激しく反論してぎくしゃくしたこともあったろうが、異なった道を 歩み始めたこの頃、二人の関係は互いを十二分に認め合うほど、柔らかに変化していたようだ。
起居を共にしたほんの2ヵ月間、漱石は子規の催す句会に出席してその手ほどきも受け、二人は知的で、穏やかな生活を過ごしたのだと心温まる想像が可能だ。
やがて子規は東京へ、第5高等学校赴任を命じられた漱石は東京で結婚し、新妻を伴って熊本へ。
この年1896年、二人は29歳になっていた。
結核菌から引き起こされる脊髄カリエスの手術を受けた子規は来年、創刊しようとしていた俳句雑誌「ホトトギス」を後継者と考える同郷の高浜虚子に託そうとするが、束縛を嫌う若い彼ににべもなく断られる。
失意を伝える熊本への文に「虚子は淡泊で、気の利かない不器用な男だが、良い人間だと思う、愛想づかしすることなく厚誼を続けてその時を待ちなさい。君の眼に狂いはないよ」と漱石は慰めている。

現在の根岸・子規庵

(2015/02/02)