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正岡子規の交遊録 その2 |わたしの歴史人物探訪

別れの時は迫る

時折、根岸庵を見舞い、句会に出席する漱石は熊本から掛け軸を送ったり、教師をやめて創作活動に入りたいと愚痴ったりしている。
子規の病状は一進一退を繰り返しながら、確実に進行していた。

現在の根岸・子規庵

玄関から庭を臨む

1900年、2年間の官費英国留学を命じられて上京、渡航準備を進める漱石が子規のもとを訪れたのは8月、この直前、大量に喀血した子規はこれを最後の会見と悟ったし、漱石も再会が期すべからざるを覚悟した。
死の10カ月ほど前、子規からの最後の手紙がロンドンに届く。
「僕はもうだめになってしまった、毎日訳もなく号泣している次第だ」から始まる書簡は漱石からの手紙を面白いと喜びロンドンの焼き芋の味を知りたいから「もし書けるなら僕の目の明るい内に今一便よこしてくれぬか」と続ける。
最後「僕はとても君に再会することはできぬと思う。万一できたとしてもその時は話もできなくなっているであろう。書きたいことは多いが苦しいから許してくれたまえ」と結んだ。
1902年9月子規逝去。享年35。
この年の11月虚子から報せを受けた漱石は12月、留学満期を迎えて帰国の途に就く前「ロンドンにて子規の訃を聞きて」“筒袖(つつそで)や秋の棺にしたがはず”“手向くべき線香もなく暮れの秋”と詠み「俳句になどなっていないが」と虚子に送っている。

子規と漱石

二人は生涯、新しい時代の日本文学、文化がどうあるべきなのか探り続けた。
漱石は英国文学を学ぶことから、それを客観的に考えようとした。
子規は日本古来の定型詩の歴史を学び、自らも創作者としてそれをめざした。
彼は余命短いのを覚っていたから、自らを奮い立たせ急ぎ足に活動した。
子規と俳句についてのみ少し述べよう。
彼が「新しい時代の俳句」に突進めば、行く手には「句聖 芭蕉」が大きく立ち塞がっていた。
子規は考える「芭蕉が神で残るすべては凡人か? まず、芭蕉をただの男に引きずりおろさねばならないのでは」と。
なぜなら、人々は芭蕉を偶像化し、その俳句をやみくもに有難がるばかりではないのか。
子規は芭蕉を否定するとか軽んじたのではない。ただ神聖視するのでなく、そこまでの俳句の歴史を学び、彼が何に悩み迷い、どう「蕉風」を確立していったのかの経緯を熟視する必要があると考えたのだ。
こうした作業から当時まったく注目されていなかった与謝蕪村を発掘し、その俳句を芭蕉のそれに匹敵し得ると評価したのだ。
そして写生を重んじる俳句を提唱していった。
特に佳作とは言えないが子規の一句を紹介しよう。

中央区側から見た柳橋

「春の夜や女見返る柳橋」
彼の生きた時代、東京の下町、柳橋界隈は花街で繁盛をきわめていた。
隅田川に注ぎ込む神田川の、そのほん手前にかかる小さな柳橋、春の夜の霞の掛った月明かりに並ぶ朧(おぼろ)な提灯。どこからか漂う三味の音と人波のざわめき。
橋のたもとで何に気を引かれたか、ふと振り返った顔は夜目にほの白い、女だ。
それだけの句。
「女見返る」は良い。「美人」では一幅の絵は嘘になる。「見返る」とは身体ごと振り返ったのではない。首だけの所作だ。
今、緑に塗られた鉄の橋は台東と中央の区を分っていて、たもとの双方にこの句を記した案内板がある。

おわりに

早稲田近くにある漱石公園

漱石は帰国後、一高の教授、東 大の講師を勤めるが「ホトトギス」を主宰する虚子に勧められて処女作「吾輩は猫である」の掲載を始めた。
虚子に文章の冗長さを指摘され、初回は共作のかたちだったといわれる。
確かに、初期の作品にはこの傾向が否め得ない。
さすが漱石はこれをよく克服した。
これが完成したとき、彼は40歳になっていた。
子規が「ホトトギス」を立ち上げていなかったらと考えるのは何の意味もなかろうが、子規が漱石の作品に接していたらどのように批評したのか、想像するだけでも楽しい。
何とも素晴らしき二人と、その交友ぶりなのだ。

 

(2015/03/02)