シリーズ

貧困の中に名作を綴った薄命の佳人  樋口 一葉 その1 |わたしの歴史人物探訪

はじめに

樋口一葉
(一葉記念館からの提供)

1872年(明治5年)に生まれた樋口一葉(本名・奈津)は、幼時、不自由なく育ったものの「女に教育は不要」な時代、小学校を11才で終え、進学できなかったし、何度も転宅したが、現在の文京区、台東区を中心に、ごく狭い地域内に暮らしたのだった。 一葉は、そうした環境の中で得た決して多くない見聞や知識を十二分に吸収し、鋭い感性で磨きあげた。 極貧の生活に苦しみながら、それらをひたむきに著して若くに亡くなった一葉を不憫に、悔しく思うのは一人私のみでなかろう。 今回はその生涯を短く紹介し、作品の魅力を探ってみよう。

台東区立一葉記念館
(一葉記念館からの提供)

一葉の生涯

17歳の一葉が戸主となった時、樋口家には亡き父の事業失敗による大きな借財が残されていた。 本郷菊坂の借家へ移り、母、妹と3人針仕事や洗い張りの内職に精を出すが家計は苦しくなるばかりだった。 そんな中、利発さを惜しんで父が通わせてくれていた歌塾「萩の舎(はぎのや)」の先輩が小説を出版し、高い原稿料を得たことに一葉は発奮する。 一家の窮状を救うのは自分の文才しか考えられなかったのだ。 「売れる小説の書き方」を求め、戯作者でもあった東京朝日新聞の小説記者、半井 桃水(なからい とうすい)に師事するが、古典と和歌しか学んでいない彼女は初め王朝風の文章で、ありきたりな筋立てを綴るしかできなかった。 ほぼそのままに残された日記は、桃水に抱いた彼女の淡い恋心を伝えているし、彼も一葉の才能を認め助力を惜しまなかったが、関係を中傷され一時絶交してしまう。 傷心の中にも「うもれ木」が雑誌に掲載され、執筆の依頼は寄せられ始めたが、原稿料は僅かで借金はむしろ嵩んでいった。 いよいよ生活が逼迫の度を極めた21歳の夏、労多く実入り少ない小説執筆に見切りをつけ、残った家財を売り払って「竜泉寺町」で雑貨の小売りを始める。

一葉愛用の紅入れ

水仙の造り花を差し入れた格子門(模型)三浦宏作

美登利と信如(展示模型)

 

 

 

 
 

 

(*上記三点は一葉記念館所蔵)

今、上野駅前を走る「昭和通り」は江戸期からの「水戸街道」に通じていて、東北へ進んで北千住へと隅田川を越えるが「下谷(したや)」の交差点を東へ折れれば「大音寺前」竜泉を経て「吉原」に向かう。 遊廓に生計を立てる人びとの粗末な長屋がひしめく町は、歓楽の館への客も行き交って、いつも騒がしかった。 しかし素人の商いは目算が外れ、一葉はこの時期、最も深い絶望の淵をさまよったのかもしれない。 翌年5月には店をたたまざるを得なかった。 安い借家を求めた本郷、丸山福山町は、稼動を始めた軍需品工場の従業員目当てに「酌婦」が春をひさぐ店「銘酒屋」の立ち並ぶ「菊坂」崖下の新開地だった。 この頃どう知り合ったのだろう、正体不明の占い師になりふり構わず生活援助を申し入れた一葉は、妾(めかけ)になるならと露骨に迫られる。 彼女の矜持(きょうじ)と潔癖感はそれを許さなかったが、この経験は金銭を得るために身体ごと投げ出さねばならない、女ゆえの悲哀を痛感させた。 竜泉で接した遊女、今ここで目の当たりにする酌婦、女たちは皆、涙を化粧の陰に隠し、辛さを杯の底に沈めて日々を過ごしていた。 彼女たちの生業(なりわい)の苦しさに自らの苦悩が重なった時、一葉は取り組むべき主題を見出した。 小説「うもれ木」はたいした稼ぎにならなかったが、新しい文学を求め愛や自由を主題に「文学界」を創刊していた浪漫主義作家たちに注目され、寄稿を求められた。 深まる彼らとの交流は、一葉に「小説を書くことの意味」と向かい合わせてもいた。 視線を市井(しせい)に貧しく生きる女性に真直ぐ向け、そうある姿に理解と同情を持ち得た今、金になる小説をと入っていた力は抜け、筆は素晴らしい勢いで走り始めた。 22歳の12月から24歳の1月まで「奇跡の14カ月」といわれる短い時間に、発表順に並べれば「大つごもり」「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」と代表作のすべてを書き上げたのだった。 名声は急速に広がり高まっていったが、彼女はすでに重い肺結核に侵されていた。 1896年(明治29年)11月、24歳で一葉は世を去った。

(2015/05/08)