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坂本龍馬と彼を支えた女性たち その2 |わたしの歴史人物探訪

お龍(りょう)と乙女(おとめ)

幕府方は軍事同盟締結に到らずとも両藩の間に何かが動き、その背後に龍馬の存在があるとの情報を入手していた。

 西国から京へは、神戸の港から小舟で大坂湾へ。
安治川、淀川を上り、宇治川に入って今の京阪電車「中書島」駅の東をさらに進み、伏見に上陸するのが龍馬の常だった。
船着き場の旅籠「寺田屋」には、お龍という名の美しい女性が居た。彼女は京の医師の家に生まれ、父を失った後、火事に遭遇して困窮するところを龍馬に救われ、「寺田屋」の養女となったとされる。

船宿「寺田屋」(京都市伏見区南浜町)

 龍馬の宿泊を突き止めた伏見奉行所は手勢を繰り出し、入浴中に気配を察したお龍は、素裸のままで急を報じに走ったといわれている。
 傷を負いながらも逃れ出た龍馬を藩邸に保護した西郷は、龍馬とお龍に霧島山中、塩浸温泉への治療も兼ねた日本初といわれる新婚旅行を提案する。3ヵ月の蜜月を過ごし、お龍は長崎へ、龍馬は自らが入手した長州藩の蒸気船「ユニオン号」で第二次長州征伐の激戦地、関門海峡で高杉を助けて幕軍を追う。
 
 
 
 さて、龍馬には帰れぬ故郷に3歳年上の姉、乙女がいた。大柄で賢く、気概に満ちた彼女は嫁して子をなしたものの、満ち足らなさに我慢ならなかったのか、やがて離縁して実家に帰った。残された手紙によれば、早くに亡くなった母にかわって幼い龍馬をあるときは諭し、庇い、ある時は助け、叱った乙女は彼の最大の理解者であり、良き朋友でさえあったといえよう。乙女からの便りは「寺田屋」留めで届き、龍馬が乙女にあてた書簡には、勝の弟子となったこと、お龍との旅行の顛末、乙女への慰めなどが記され、行間に優しさが満ちて彼の人柄を偲ばせる。

乙女姉さん
剣術、馬術、和歌など文武両道に優れた龍馬の最大の理解者
[写真提供:霊山歴史館]

「海援隊」「船中八策」「大政奉還」と死

 土佐も藩論が漸く反幕へと傾くと亀山社中は無視できず、貿易と軍事面で海から「援けられる」見返りに、藩は運営費用面で龍馬らを「援ける」とした「海援隊」に発展した。この頃、幕府と仏国との軍資金借款構想を知った龍馬は、それが倒幕戦の泥沼化を招いて列強国のみに利し、国内を荒廃させると憂いて「大政奉還」の無血革命を模索するが、その後の「政体」も示さねば説得力に欠けると思いを巡らす。
 結果、成ったのが「船中八策」で、明治維新の綱領に反映し「五箇条の御誓文(ごせいもん)」の下敷きとなった案文だ。
 しかし、1867年10月の大政奉還の離れ技は、開戦を必須とする薩長の主戦派には邪魔な存在だったし、徹底抗戦を構える一部の幕軍指導者にも不快極まりなく、彼は腹背に敵を受けたのだった。翌月の龍馬襲撃が誰の指示によったものか、真実は闇の中だ。
 

おわりに

 龍馬の死後、お龍は高知で乙女らと共に暮らしたが、京育ちで全く家庭的でなかったといわれる彼女と、武家育ちで男勝りの乙女が和気あいあいに、とはゆかなかったようだ。養わねばならない老母と妹がいたこともあり、京に戻ったお龍はやがて横須賀へ出て再婚したという。
 司馬遼太郎はあとがきで、乙女について「幸福な生涯ではなかった」と書いているが、彼女は身に余る才覚を発揮するいささかの場も得られず、鬱屈し続けたのだろうか。妻、お龍は龍馬からの手紙をすべて焼いたが、姉、乙女はすべてを残した。

 同時代の西郷や、高杉、桂は藩士として藩の利益を得るべく、藩の力を背景に活躍したが、一方、龍馬は勝に促されて知己を得た西郷からの援助は大きかったにせよ、脱藩者である龍馬は徒手空拳、ほとんどを自らの手でつくっていった。
維新後の政府要職の人選案に自らの名前を書き入れもしなかった龍馬は、勝という開明的、現実的な人物に教育されたことからか、矮小な政治論に陥ることが全くなかった。常に世界の中の日本を見据え、あるべき日本の将来をめざして駆け抜けるように生きたのだった。

慶応2年12月4日乙女姉さんに送った龍馬の書簡  [写真提供:坂本龍馬記念館]
「お龍がおればこそ龍馬の命は助かりたり・・・」と書き、お龍の出自や霧島登山のことを絵入りで述べている。
その繊細な描写には彼の人柄が感じられる。

(2016/08/25)