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沖縄文化と泡盛(1)「アジア交易と泡盛」 |沖縄文化と泡盛

1458年、首里城の正殿前にかけられた梵鐘、別名「万国津梁の鐘」(現在は沖縄県立博物館蔵)には、琉球の大交易時代の様子が記されています。

琉球国は南海の勝地(しょうち)にして、三韓の秀(しう)を
鍾(あつ)め、大明(だいみん)を以て輔車(ほしゃ)と為(な)し、
日域(じちゐき・日本)を以て唇歯(しんし)と為(な)して、
此の二つの中間に在りて湧出(ゆうしゅつ)せる蓬莱島(ほうらいとう)なり。
舟楫(しうしふ)を以て万国の津梁(しんりやう)と為(な)し、
異産至宝(いさんしほう)は十方刹(じつぼうさつ)に充満し、・・・ (以後 省略)

三線、舞踊、食などの沖縄独自の文化は、東南アジアでの交流によって誕生したものです。沖縄の酒・泡盛(あわもり)も例外ではありません。泡盛の製法は、500年以上前から交流のあったシャム(現在のタイ)から伝わったといわれています。

焼酎のルーツともいわれる国内最古の蒸留酒といわれる泡盛。その特徴は原料米がタイ米(インディカ種)であること、そして、全麹の黒麹菌(アワモリコウジカビ)を使用している点です。
米麹と水に酵母を加え発酵させ、単式蒸留機で蒸留する製造方法は、基本的に500年前から変わっていません。

泡盛は、琉球の特産品として各国王の贈答品や、江戸の将軍への上納品として重宝されました。
琉球王国時代は、製造も琉球王府のもとに厳しく管理されましたが、近代になり、沖縄県になってからは民間でも泡盛がつくられるようになります。

6月23日「沖縄慰霊の日」。1945年3月からはじまった沖縄戦において日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる日です。日本軍が司令部を置いた首里は泡盛製造の中心地でした。沖縄戦により、首里の酒造所は工場も設備も破壊されてしまいました。

(2013/09/18)