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沖縄文化と泡盛(2)「江戸上りと泡盛」 |沖縄文化と泡盛

琉球王国時代、製造を首里王府のもとに管理されていた泡盛は、外交に欠かせないものでした。

1609年に薩摩の支配下におかれた琉球王国は、幕府の将軍が代わると「慶賀使」、琉球の国王が代わると「謝恩使」を江戸に派遣しました。琉球使節は約100人前後で構成され、これに薩摩藩の藩主や役人も加えて全体で1000人を超える大行列となりました。これを「江戸上り(えどのぼり)」(江戸立)といいます。1634年から1850年までに18回実施されました。

江戸上りの琉球使節は、琉球を6月ごろ出発し、鹿児島の琉球館に入り、8月から9月にかけて鹿児島を出発、長崎、平戸、下関を経て、瀬戸内海を通り、大阪に入ります。
伏見からは美濃路・東海道を経由して江戸までを徒歩で移動しました。江戸に到着するのは11月か12月ごろでした。

琉球から将軍家へ献上された品物の目録をみると、1644年から1653年までは「焼酒」「焼酎」と記されていましたが、1671年以後は「泡盛酒」と表記されるようになりました。

江戸上りでは、国王と正使から将軍に献上される泡盛のほか、幕府の要人や旅の途中で世話になるところへ「御礼(おんれい)まいり」として、また、琉球使節が各地で接待に使う場合もあるので、かなりの数の泡盛の壺が運ばれました。

大阪では、大阪城代と大阪船奉行に「御礼まいり」として1壺から2壺献上されています。

当時の泡盛、どのようなものだったのでしょう。味わった大阪人の感想がどこかに残っていないでしょうか。

(2013/09/18)