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大和田橋と戦災殉難者慰霊碑 |兵庫人権スポット

1941年12月からの太平洋戦争のはじめ頃、日本軍は、東アジアから太平洋の西側を占領した。しかし、1944年7月から8月にかけてアメリカ軍はマリアナ諸島(サイパン、グアムなど)を占領し、B29爆撃部隊の大規模な基地を3ヵ月ほどで建設して、日本への空襲を始めた。
はじめは、軍需工場を攻撃していたが、1945年3月から、市民が住む町に焼夷弾爆撃をするようになった。東京、名古屋、大阪がB29の大編隊の空襲を受け、3月17日午前2時頃、神戸の西部(現在の長田区、兵庫区、中央区の一部)にもB29の大編隊がやってきた。
焼夷弾によって焼かれた民家の火は、突風にあおられ、逃げ惑う市民の群れに迫った。兵庫運河にかかる大和田橋には多くの市民が殺到した。合計306機のB29が2,300トンもの焼夷弾を落とした。大和田橋の付近だけで、一晩に約500人が折り重なるように亡くなったといわれている。
1923年に建立された石造りの大和田橋は、今も石の欄干の足元がまっ黒に焦げている。激しい爆撃にあってもこの橋はびくともしなかった。
空襲から50年の歳月がたった1995年1月に阪神・淡路大震災が神戸の街を襲った。兵庫区も大きな被害を受けたが、大和田橋も古い欄干の一部が崩れ落ち、瓦礫として処分されそうになったのを、町の人たちが「戦災も震災もくぐりぬけた証人」として残してくれた。現在、大和田橋の東端には「戦災と震災のモニュメント」が建ち、東端のたもとの空き地には、地元の人びとが建てた「戦災殉難者慰霊碑」があります。

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大和田橋と「戦災と震災のモニュメント」

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戦災殉難者慰霊碑

場所:
兵庫県神戸市兵庫区中之島2
地下鉄海岸線・中央市場前駅より約400m。徒歩で約5分程度。

(2014/09/04)