案内板

松浦武四郎記念館 および 松浦武四郎誕生地 |人権施設情報

ホームページ https://takeshiro.net/information
郵便番号 〒515-2109
住   所 三重県松阪市小野江町383
電話番号 0598-56-6847
開館時間 9:30~16:30
休館日 ・毎週月曜日(祝日の場合は開館し、翌日の火曜日を休館)
・祝日の翌日(土曜日・日曜日は開館)
・年末年始(12月29日から1月3日)
※このほか、管理・運営の都合上、止むを得ず臨時に休館する場合があります。
入館料 松浦武四郎記念館
入館料   大人310円、6歳以上18歳以下200円
団体料金  大人200円、6歳以上18歳以下100円
松浦武四郎記念館 + 松浦武四郎誕生地(武四郎の家との共通入館券)
19歳以上 : 350円
団体料金 : 250円
※20名以上は団体割引となります。
※受付で障害者手帳ご提示の方、未就学のお子様は無料です。
交通機関 電車:近鉄伊勢中川駅 東口からタクシーで約7分

車:伊勢自動車道 久居ICより約15分

バス:伊勢中川駅 東口から三雲地域コミュニティバス「たけちゃんハートバス」(10人乗り)を運行(平日のみ)。松浦武四郎記念館にて下車 すぐ
駐車場 松浦武四郎記念館前にあります。
概 要
「松浦武四郎記念館」

松阪市(旧三雲町)では、偉大な松浦武四郎の功績を偲び、1994(平成6)年、それまで松浦家で代々大切に保存されていた武四郎ゆかりの資料の寄贈を受け、これらの資料を収蔵し展示して武四郎の功績を広める博物館として「松浦武四郎記念館」を開館しました。
2008(平成20)年には、松浦家から寄贈された貴重な資料のうち、1505点が国の重要文化財に指定されました。松浦武四郎記念館の展示室では、約2ヶ月ごとに資料を入れ替えながら、多彩な分野で活躍し、さまざまな顔を持っている松浦武四郎の姿を紹介しています。

松阪市指定史跡「松浦武四郎誕生地」
松阪市小野江町にある松浦武四郎誕生地は松浦武四郎の実家にあたり、1962(昭和37)年、当時の三雲村が史跡に指定しました。
生誕200年を迎える2018(平成30)年2月に合わせ、明治維新直前に作られた家相図に基づき、武四郎が生きた時代の建物構成である「主屋」「離れ」の保存修理と土蔵二棟、納屋の補強工事を行い、松阪市指定史跡「松浦武四郎誕生地」として整備を行なっています。
伊勢神宮と京都や江戸を結ぶ伊勢街道の宿場町で、また、おかげ参りやお伊勢講で知られるお伊勢参りなどの往来でにぎわう街道に面しており、武四郎少年の旅への冒険心を大きく育みました。
武四郎の父母や、兄の家族が代々住んだため、武四郎にとってはふるさとの実家であり、現在は松阪市の所有となっています。

「松浦武四郎記念館」松阪市ホームページ

はじめに

松浦武四郎記念館

2018(平成30)年は、江戸時代に蝦夷地と呼ばれていた大地が〝北海道”と名付けられてから150年目の年であり、また名前を提案した松浦武四郎(1818(文化15)年生~1888(明治21)年71歳にて没)の生誕200年となる記念の年でした。

「北海道の名付け親」として知られる松浦武四郎は、幕末に先住民族のアイヌの人びとが、松前藩や商人による圧政と搾取に苦しめられ、民族の存続さえ危ぶまれる状況にあることを、多くの書物などに著し世に知らしめました。
そして、アイヌの人びとの過酷な状況の改善や、民族と文化に誇りを持ち、再び自立して生活できるように、江戸幕府や明治政府に働きかけた人でもあります。
広報委員会は、この記念の年に、武四郎の功績を称える記念館を訪ね、彼の生き方と多くの業績を学び、今後の多文化共生へのさらなる理解と文化の創造へ繋げたいと考え、皆さまにご案内します。

松浦武四郎

晩年の松浦武四郎

松尾芭蕉、本居宣長とともに、三重県が生んだ偉人の一人である松浦武四郎は、現在の三重県松阪市の出身です。

生涯にわたり全国を歩き続け、探検家、旅行家、民俗・文化研究者、地誌・地理学者、地図製作者、出版者、蒐集家、作家、など類いまれなる知識欲と冒険心で、多芸多才ぶりを発揮しています。
数々の業績の中でも、多くの人々の記憶に刻まれているのは「北海道の名付け親」であることでしょう。

北海道の探検に始まり、全国各地をすみずみまで旅した人物で、武四郎の歩いた道をつなげば、日本地図ができ上がるとまでいわれるほど、その足跡は日本全国に及んでいます。
また、その人となりは、さまざまな価値観を受け入れる広い心と、偏見を持たない眼、生涯にわたり常に先を切り拓くダイナミックなパワーに包まれていました。

生涯と業績〜明治まで

伊勢街道に面している     武四郎の誕生地

松阪市の北部にある武四郎誕生の地は、伊勢街道に面しています。伊勢街道は南に伊勢神宮、北に行けば四日市で江戸と京都を結ぶ東海道につながり、お伊勢参りや江戸・京都・大阪との文化・商業の交差点として、諸国の人びとが行き交った道です。
さまざまな国の言葉と人びとの往来は、武四郎に未知の世界への思いをかき立てさせました。(※1)

武四郎は16歳の時、江戸へ旅立ち、その後全国各地を旅して、名所旧跡を訪ね名山に登りました。彼はただ旅をするだけでなく、行く先々では「野帳(のちょう)」(※2)に土地の名所や風土・文化をスケッチを添えて記録し、各地の名の知れた学者を訪ねて学び、在野の文化・知識人との接点を得るなど、後の幅広い人脈の基礎を作ります。
江戸では、「篆刻(てんこく)」(※3)の技を身につけ、旅先での日々の糧を得ます。また、野宿で病や追剥(おいはぎ)にあい、山奥の民や各地の人びとに助けられるなど、後の蝦夷地探査時に役立つ、人間としての貴重な体験もします。さらにこの旅では、老中水野忠邦の配下の家来とも知り合い、江戸で一時、水野家の奥向きとして奉公するなど変わった体験もしています。

鎖国中でも開港していた長崎に滞在した時、蝦夷地をロシアが狙っている(ロシア南下政策)危機情報を外国人から入手します。当時26歳だった武四郎は、蝦夷地の実情を自分自身で探査する決意をします。
1845(弘化2)年28歳の時、商人の手代に身を変え蝦夷地に渡ります。
翌年には、知り合いの松前藩医西川春庵の樺太詰に従者として同行、西蝦夷地から宗谷・樺太へ渡り、1849(嘉永2)年には第3回目の探査を行い、函館から船で国後島・択捉島へ渡ります。

蝦夷地調査行程図(第1回)

蝦夷地調査行程図(第2回)

蝦夷地調査行程図(第3回)

 

 

 

 

 

 

 

 

その後は江戸にもどり、探査結果を渡航ごとに、地誌や体験し見聞きした事柄を日誌の形で記して、膨大かつ緻密な記録を完成させます。(※4)

当時、蝦夷地の情報は少なく、市井の学者から志士、各藩の大名、水戸藩主徳川斉昭や藤田東湖など、時代や政治の中枢にいる人物までが入手に躍起になるほどで、武四郎は一躍「蝦夷通」としてその名を知られます。
また、蝦夷地の概要をまとめた小型の地図『蝦夷大概之図』を発刊します。この地図に、松前藩の圧政とアイヌの人々の困窮の状況を嘆いた漢詩を記したため、松前藩の激しい怒りをかい命を狙われます。

1853(嘉永6)年のペリー来航後、「日米和親条約」、「日露和親条約」などの締結があり、幕府は蝦夷地を直轄地として守りを固めようとします。
武四郎は〈蝦夷地御用御雇入〉の幕命を受け、松前藩からの蝦夷地引き渡しのための幕府調査隊に加わり、1856(安政3)年から1858(安政5)年まで3回、蝦夷地に渡り全道および樺太南部を巡ります。

蝦夷地調査行程図(第4回)

蝦夷地調査行程図(第5回目)

蝦夷地調査行程図(第6回)

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、この調査が武四郎の命を救いました。
蝦夷地調査の最中、大老井伊直弼による「安政の大獄」(1858〜1859年)が起き、武四郎がかねてから親交していた吉田松陰や頼三樹三郎(らいみきさぶろう)などの志士たちは死罪になります。武四郎も調査に加わっていなければ、おそらくは逮捕され獄に入れられていたことでしょう。

この幕府の調査では、役人としての仕事に励むとともに、内陸部の地誌の記録や地名の採集とアイヌの人びとの現状掌握に努めます。特にアイヌの人びとの人口の減少には心を痛め、その原因である「場所請負(ばしょうけおい)制度」(※5)の廃止と、幕府の「撫育同化(ぶいくどうか)政策」(※6)の転換を求め、数多くの提言をします。

1859(安政6)年、蝦夷地探査記録の集大成ともいうべき『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌(ぼごとうざいえぞさんせんちりとりしらべにっし)(全62冊)』『東西蝦夷山川地理取調図(とうざいえぞさんせんちりとりしらべず)(全28冊)』をまとめ、堀織部正(ほりおりべのかみ)のいる函館奉行所に提出します。
地理取調図には武四郎が実地に踏破した国後島、択捉島まで網羅され、また最新の描写手法が用いられており、地形の細かさに圧倒されます。

東西蝦夷山川地理取調図 1859年刊 縦2m40㎝×横3m60㎝の大作

左図の拡大(羊蹄山・洞爺湖付近)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この地図にはアイヌの人びとから聞き取った地名をカタカナで表記し、その数は9,800にも及びます。また地図の凡例には、探査の際に各地で武四郎を案内したアイヌの人びと277人の名前が記されています。武四郎のアイヌの人びとへの思いが伝わってきます。
寝食をともにした蝦夷地の調査を通じ、アイヌ語を覚え、アイヌの人びとの暮らしや人柄に尊敬の念を抱き、その気持ちはアイヌの人びとにも伝わり、分け隔てない真摯な人柄とともに、武四郎は信頼を得ていきます。アイヌの人びとの協力無しには詳細な蝦夷地探査は不可能だったでしょう。

生涯と業績〜明治になって

維新後は、西郷隆盛を通じて、蝦夷地開拓に期待を寄せる大久保利通と京都で面会します。大久保は感服し、得難き人物であり、蝦夷地は武四郎に任せては、と岩倉具視に進言します。箱館府(後の開拓使)判府事の任命を受け、従五位下に叙せられ開拓事業に携わります。

この頃、蝦夷地に新しい名前を付ける話が俎上し、武四郎は『蝦夷地道名之儀ニ付勘弁申上候書付』を提出、「北加伊道」「日高見道」「海北道」「海島道」「東北道」「千島道」の6つの候補を提案します。政府はその中から、アイヌ民族を指す古い言葉の「カイ」を用いた「北のアイヌの人びとが暮らす広い大地」という「北加伊道」を採用、「加伊」を「海」に改め、「北海道」の名が誕生します。

北海道の開拓を新政府より託され、武四郎はアイヌの人びとが安心して暮らすことができる北海道をめざし、新方針として
一.松前藩の人々に二度と支配させない。
一.場所請負制度を廃止する。
一.当面の間は諸藩で分割統治する。
という3点を提案し、アイヌの人びとを苦しめていた場所請負制度の廃止と松前藩や商人の排除などを強く訴えます。
しかし、ことごとく反対され、開拓はアイヌの人びとの実情には見向きもせず、推し進められます。
武四郎は北海道開拓の進め方に強く反発しますが、抵抗勢力に阻まれ孤立し、1,250字にも及ぶ開拓使への痛烈な批判を記した辞表を提出しました。

この時、開拓使の判官だった武四郎は長年の功績が認められ、国から叙されていた従五位の位も返上し野に下ります。地位や名誉ではなくアイヌの人びとを守るために力を尽くしたかったが果たせなかったという無念さが伝わってきます。

その後、一度も北海道へ渡ることはありませんでした。

しかし、武四郎の功績を讃える記念碑や像は北海道内の各地をはじめ、日本中の多くの場所に建てられています。

 

(※1)武四郎13歳の時の「文政のおかげ参り」では、1年間に400〜500万人(当時の日本の人口は約3,000万人)が通ったとされ、街道を埋め尽くすほどの旅人に刺激を受け、武四郎は旅を志すようになったといわれています。
(※2)フィールドワークのメモ帳
(※3)木・石などの印材に文字を彫ること。特に、書画などに用いる印章を作ること
(※4)『初航蝦夷日誌(全12冊)』『再航蝦夷日誌(全14冊)』『三航蝦夷日誌(全8冊)』
(※5)商人がお金を松前藩の上級家臣に納めて、上級家臣らが持っている蝦夷地の領地(商場)の経営を家臣に代わって商人が行う制度
(※6)アイヌ(アイヌ語を母語とする人びと)を和人(日本語を母語とする人びと)化しようとする政策

蝦夷漫画(えぞまんが) 1859年刊 アイヌ文化を紹介しているミニ百科事典

北蝦夷余誌(きたえぞよし) 1860年刊 カラフト(現在サハリン)南部の調査をまとめた紀行本

蝦夷闔境山川地理取調大概図(えぞこうきょうさんせんちりとりしらべたいがいず) 1860年刊               北海道、千島列島、カラフトを表した小型の地図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(写真提供:三重県松阪市 松浦武四郎記念館より)

ここがポイント!

多芸多才の武四郎ですが、なんといっても、28歳から41歳まで探査し続け名付け親となった北海道や、アイヌの人びととの交流は圧巻です。6回に及ぶ探査で武四郎が現実に見聞きしたことは、松前藩の国防への無策と圧政、場所請負商人たちによる横暴の数々、アイヌの人びとの人口激減の実態でした。「その土地に住む人々が安心して暮らすことこそが国防の基本」と考える武四郎は、怒りとともに、アイヌ民族を正しく理解してもらうため、自然と一体となって生きる文化や暮らしなどを細かに記録し、紹介に努めます。愛情と義憤が込められた調査記録は全6回の探査で151冊もの報告書にまとめられています。松浦武四郎記念館には、1,500点を超える重要文化財をはじめ、蝦夷地の地図、冊子、日誌や紀行本などの出版物や、生涯と業績を詳しく解説したパネルなど数多くの資料がわかりやすく展示公開されています。どのような人であっても人として尊重し大切にする思いや、国を思う武四郎の志に触れる時間を、記念館で体験されてみてはいかがでしょうか。

(2019/06/28)