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茨木市立キリシタン遺物史料館 |人権施設情報

ホームページ http://www.city.ibaraki.osaka.jp/shisetsu/kyoikubunka/1317033473230.html
郵便番号 568-0098
住   所 大阪府茨木市大字千提寺262
電話番号 TEL./FAX.072-649-3443
開館時間 午前9時30分~午後5時
休館日 火曜日、祝日(火曜日のときはその翌日)、年末年始12月29日~翌年1月3日
入館料 無料
交通機関 阪急茨木市駅およびJR茨木駅から阪急バス忍頂寺行きで千提寺口下車、東へ徒歩900m

 1987年10月2日、茨木市の山地部にある千提寺に市立キリシタン遺物史料館がオープンした。
キリスト教は、茨木地域を含む三島地方と深い関係を持っています。
それは当時京都の西の門戸で、しかも要害の地と目されていた高槻城主(高槻市)に、高山右近が天正元年(1573年)から同13年(1585年)までいたことによる。
高山右近(教名 ジュウスト)は、旧大阪府三島郡清渓村大字高山(現在の大阪府豊能郡豊能町)の生まれだとされているが、高山父子と親交の厚かった伴天連ルイス・フロイスが著した有名な『日本史』には、右近の父である飛騨守(教名 ダリヨ)やその祖母は高山で生まれて、右近は大和の国、沢城で生まれたこと、また右近の夫人は同村「余野」(豊能郡豊能町大字余野)の城主黒田氏の娘であることなどについて記している。右近が父飛騨守のあとを受けて高槻城主となったのは天正元年で、21歳の時であった。
天正6年(1578年)に織田信長は、摂津伊丹の城主・荒木村重を攻めようと、荒木の家臣であった高山父子を牽制するため、伴天連オルガンチノ(またはウルガン伴天連)をさしむけた。さすがの高山父子もキリスト教の信仰とはかえがたく、信長の謀略にかかり、ついに信長に服従したのであった。この事件で、父のダリヨは信長の怒りに触れて死罪と決断されたが、右近の願い出によって、信長の老臣柴田勝家に託された。
信長の後継者となった豊臣秀吉は、九州平定直後の天正15年(1587年)にキリスト教の教義が、当時の封建思想と相容れないことなどから、キリスト教の布教と信仰を禁止した。
これによって右近は、天正16年(1588年)に加賀の前田侯に預けられた。さらに慶長18年(1613年)には、徳川家康がキリシタン禁教令を発布したので、右近は翌年の慶長19年、61歳のときルソン島のマニラヘ他の信徒達とともに追放されたのであった。しかし彼は、この不幸に対しては、人を恨まずひたすらに自らを深く懺悔しながら、翌元和元年(1615年)、63歳でマニラの地で没したのである。
安土桃山時代を経て、約260年間続く江戸時代に入っても、このような政策を推し進めたため、キリスト教の信者達やその縁者までも含めて、死罪、流罪、一家一類断絶の厳科に処せられた。またキリスト教に関係の深い物品やそれらしきものは、すべて取り上げられ消滅させられたのである。
この禁教政策によって、三島地方の信者達は常に探索の対象となったため、隠れて信仰を続けなければならなくなった。
今も千提寺や下音羽に残るキリシタン関係遺物も、こうした隠れキリシタン信者達の苦労によって受け継がれてきたものであり、その遺物を展示、またその地にキリシタン遺物史料館を設けたことによって、当時の様子がしのばれるのである。

 

 

(2013/05/20)