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浪速の下町に生まれた奇才  織田 作之助   その1 |わたしの歴史人物探訪

はじめに

職場で机を並べる女性や知人の娘さんが結婚すると聞くと、筆者はきまって小説「夫婦善哉(めおとぜんざい)」を読んでごらんなさいと助言し、時には文庫本を贈ったりした。
が、喜ばれたこともなく「そんな辛気臭いもん読まれへん」と露骨にいい返されたのは稀にしても、まず殆ど無視された。
筆者とて、作中の蝶子を理想的な女性と考えるわけではないが、ただ、この小説をこよなく愛しているのだ。
と、いうわけで今回は、その作者、織田作之助の生涯と、文学世界の一端を皆さまにご紹介しよう。

生い立ちと出世作

大阪の街は面白い。
南北に走る松屋(まっちゃ)町筋から、東の谷町筋へ、急な、あるいはなだらかな坂道を上がってゆく。天王寺七坂と呼ばれ、口縄(くちなわ)坂、清水坂、愛染(あいぜん)坂などが、二つの大きな通りを繋いでいるのだ。

口縄(くちなわ)坂

清水坂

愛染(あいぜん)坂

そこからが上町(うえまち)台地の高台で、私たちが大阪の街と呼んでいる低地のほとんどは、太古、海の中だったといわれている。
このあたり「夕陽丘」と優雅な名を冠する地の坂上から、古人は歌を詠み、数知れぬ人びとが海に落ち行く陽を溜息交じりに眺めたのだろう。その高台、東京ならさしずめ山の手といわれそうな地が、大阪では下町に属している。

現 生魂(いくたま)小学校前

織田作之助は1913年、ここ、天王寺区の上汐(うえしお)4丁目、今の生魂(いくたま)小学校前あたりの仕出屋「魚春」(後に一銭天麩羅へ)に姉二人、妹が一人の長男に生まれた。
長屋の裏店だったというから、まさに下町っ子だ。
高津(こうづ)中学(現、大阪府立高津高等学校)に学んだ作之助は学業優秀で、第三高等学校(現、京都大学)へ進んだ。
この地の小学校から三高に入学したのは彼が初めてだったから、まだ、学業の職業的な差別は色濃かったのだろう。
やんちゃで行動力に溢れた幼き作之助像が伝えられているが、彼はその前年、母を病で失っていた。
19歳で父も亡くした作之助を経済的に援助したのは長姉の夫、竹中国次郎で、この人は彼を生涯に亘って支えたのだった。
幼い折から読書家だった彼が文芸の世界へ踏み込もうとしたのは、この頃からのようだ。
三高といえば自由な校風で知られ、当時、左翼思想も盛んだったが、作之助は思想的に大きな傾きを持つことが無かった。
これが難しい時代を、作家として乗り越えられた最大の理由と考えられるし、従って彼は、戦後、作風を変える必要が全く無かったのだ。
三高近くの酒場に勤める宮田一枝と知り合って、店に通い詰め、銀閣寺道近くの下宿で同棲を始めた。
だが、作之助は21歳の折、卒業試験中に突然、喀血し、大阪から白浜へと療養に転地せざるを得なかった。
結局、1936年、卒業することなく京都を去ったが、戯曲や映画の台本作りなどに興味をもっていた彼は、やがて劇作に見切りをつけ、小説の世界を模索しはじめる。
同棲先を転々として放浪を味わい、男女間の情念を知り、金銭的な困窮を経験したことは、作之助の文学の世界を広め、深めてゆくことになったのだろうか。
大阪、東京を行き来して、デビュー作「ひとりすまふ」「雨」を発表し、やがて大阪で、学費や生活費を惜しみなく支弁してくれていた竹中方へ寄寓し、新聞社の記者として働きはじめた。そして一枝と結婚、南海高野線の北野田に落ち着く。
小説「俗臭」「放浪」が好評で、次いで発表した「夫婦善哉」は改造社、第一回文芸推薦作品に選ばれ、新聞社を辞し、文筆業に専念しはじめた。
しかし時勢は日中戦争へ突入して、険悪になるばかり。発売禁止を経験した彼は、仕方なく歴史小説へ転向して暮らしを立て、終戦を待ったのだった。そんな中1944年の夏、妻の一枝を病で亡くしてしまう。
その後、何人かの女性とかかわった作之助だが、一枝を最も愛していたようで、自身が亡くなるまでその遺髪と写真を身に着けていたと伝わる。
(次回へ続く)

(2017/06/27)