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ユダヤの人びとに寄り添って生きた 小辻 節三 その1 |わたしの歴史人物探訪

はじめに

小辻節三の生涯探訪の執筆を依頼されたとき、途方に暮れた。その名前さえ知らなかったのだから。
そして「彼について書かれた書籍が一冊あります」と教えられ、早速求めた。
『命のビザを繋いだ男・小辻節三とユダヤ難民』と題され、筆者は、米国に長く留学され、俳優として活躍されている山田純大さんだ。この一文に接されて興味をお持ちの方には、一読をお奨めする。驚かれるとともに、心温まられようから。
というわけで、今回はこの書からの受け売りの紹介であることを、ご了解願いたい。

1940年、リトアニアの日本領事館前に、日本へのビザを求めて詰めかけた大勢のポーランドからのユダヤ難民。領事代理の杉原千畝は、本国の指示に従わず、自らの良心に従ってビザを発行し始めた。その作業は、退去命令期限のぎりぎりまで続けられた。この顛末については良く知られている。
が、彼が与えることができたのは、滞在が10日間ほどの日本通過ビザでしかなかった。それを入手した6,000人からの難民は、その後、どうして、どうなったのだろう。この疑問に答えてくれるのが、小辻節三だ。
彼の話に移る前、もう一人紹介しておこう。ソ連官憲の厳しい取り調べを受けながらも、シベリア鉄道での長旅を経て、港町、ウラジオストックに降り立った彼らについて、外務省は現地の領事館に、日本への乗船を許可しないよう通達した。
総領事代理だった根井三郎もまた、心優しい、気骨の持ち主だった。「帝国の公館が発給したビザには日本の威信がかかっている。これを無効にすれば日本は国際的信頼を失うこととなる。よって指示には従わない」とはねつけ、全員を日本へと向わせたのだ。

小辻 節三の生い立ち

京都、賀茂神社の神官の家に、五人兄妹の末っ子に生まれた彼は、武士道を規範としながら成長したが、13歳の折、明治天皇の崩御に続き、乃木将軍夫妻が自決した事件に衝撃を受けた。
人間の生きる意味とは…。思い悩む少年、小辻が古本屋で出会ったのは「聖書」だった。父の反対を押し切り、奨学金を得て東京の明治学院大学神学部に進んだ。成績優秀で卒業した彼だが、就職先はキリスト教会しかなく、旭川で主任牧師となった。しかし、この頃、小辻はキリスト教に違和感を持つようになっていた。自分の深い部分にある疑問に「新約聖書」は答えを指し示してくれそうもないと。
24歳で、日高の大牧場の娘、美禰子と恋に落ちて結婚し、岐阜の教会へ移り、幸せな新婚生活を送る彼だが「旧約聖書」を学びたいという欲求は抑え難かった。全財産を処分し、家族3人、米国に渡った小辻は苦労をしながらも、温かく迎えられた。4年間、ユダヤ教とヘブライ語を学んだ彼は、パシフィック宗教大学から博士号を贈られ、1931年に帰国した。
娘3人に恵まれ、青山学院の教壇に立つことのできた小辻だが、不幸がやってくる。長女を病で失い、自らは伝染病におかされて失職し、妻も患い、困難が次々に襲った。やっと立ち上げた「聖書原典研究所」の教室も、宗教関係者たちからの嫌がらせで、3年ほどで閉鎖せざるを得なかった。

満州へ

聖書研究に没頭する学者、小辻のところに、南満州鉄道の総裁、松岡洋右から、助言者として働いて欲しいと、依頼が舞い込んだのは1938年。通称「満鉄」は単なる鉄道会社でなく、国策会社としておおよそ満州における主要な施設のすべてを管轄していた。
当時、満州にはソ連から、欧州から、差別に抗しきれず逃れてきたユダヤ人が、多く居住していて、ひとつの社会を構成していた。関東軍、満鉄の首脳が「河豚作戦」と名付けた計画の目的は、彼らの欲するものを調査し、その生活を安定させることによって、アメリカ在住のユダヤ人からの出資を誘導することと、高まる一方のアメリカとの緊張を緩和させることにあった。
しかし、接近しつつある、ユダヤ人を弾圧するナチスドイツとの確執も予想され、河豚のように、美味と毒とが同居するものだった。緊張高まるソ連を牽制する必要にも迫られる関東軍や松岡たちにとって、満州、上海に居住するユダヤ人たちへの扱いは、配慮すべきものだったのだ。
小辻は、ユダヤの人びとと深く交わって、ナチスの激しい迫害の実態を知ることとなった。2年間の満州生活は、彼の心をユダヤの人びとに強く寄り添わせたといってよかろう。ユダヤ人を取り込みたい関東軍と、自治確立をめざすユダヤ人の首脳たちの会合で、小辻は挨拶した。見事なヘブライ語とその内容に、ユダヤ人聴衆全員が立ち上がり、拍手喝采を送ったという。祖国を追われ、満州に不安な日々を送る彼らに同情し、尊敬と友情の気持ちを込めて励まし、勇気づける演説で、彼らの心の奥深くにしみ込んだのだ。

日本に押し寄せたユダヤ難民

「河豚作戦」をよそに、中国との対立は泥沼化して、松岡は総裁を辞し、小辻もやがて帰国した。彼は後に「私はそのとき、自分の中にユダヤの精神が宿っていることに気付いた。私の人生において、それはまるで何かを予言しているかのようだった」と述べている。
満鉄からの多額の退職金もあり、鎌倉に居を移した小辻一家は短い、静かな時を過ごしていた。
が、1940年7月杉原から「命のビザ」を受け取ったユダヤの人びとが、日本にやってきた。敦賀に上陸した彼らに、街の人びとは優しかった。身体の汚れきった彼らに、銭湯の主人は営業を休んで浴場を開放した。船上で出産した母児の命を医者と看護師が守った。食事を差出し、宿泊を世話した。ここは、古くから大陸との玄関口で、明治以降は西洋人も多く行き来はしていたが、それにしても心温まる話だ。

「人道の港 敦賀ムゼウム」外観

「決死の覚悟」の展示パネル

ユダヤ人たちの多くは「関西ユダヤ教団」のある神戸へと向かったが、50世帯ほどの小さな其処では、満足にすべてを受け入れられはしなかった。加えて、何よりも彼らを恐れさせたのは、ビザの有効期間の短さだった。行政に掛け合っても延長の願いは叶わず、窮したとき、誰かが、満州で感動的な演説を行った日本人、小辻に思い当たった。
報せを受けた彼は、即座に動いた。ビザの延長以外にも問題は山積していた。乗船はできたものの、ビザを持たないため、上陸のできないユダヤ人が72人も敦賀、ウラジオストック間を漂っていた。概ね好意的な神戸市民だったが、街中に溢れたユダヤ人たちとのいざこざへの対応にも小辻は追われた。
外務省で彼はたらいまわしに会いながらも、何とか洋上の彼らを上陸させることはできたが、ビザの延長には頑として応ぜられないというばかりか、働きかけそのものが、まかりならぬと脅しをかけられた。
思い余った彼は、ついに外務大臣、松岡洋右のところに飛び込んだ。率直に助けを求める小辻だが、松岡の立場も難しいものだった。軍部は圧倒的な力をもって政治家を動かしていたし、その意向を無視することはできなかったから。私人として外に出た松岡は、唯一の方策を小辻に与えた。「ビザの延長の権限は神戸の自治体にある。そこが行うことに、基本的に政府は関与しない。自治体を動かすことができるなら、外務省はそのことに見て見ぬふりをしよう。それは、友人として約束する」と。当時「入国管理局」は無く、実際にビザを扱うのは地方の警察署だった。
が、どう考えても正面からの交渉では取り合ってもらえまい。と、すれば金がものをいいそうだが、まずはその金を拵(こしら)えねばならない。資産家の事業主である姉の夫を訪ねた小辻は「友達が私の助けを必要としています。これは私のためでなく、人の命のためなのです」とありのままを打ち明け、用立てを求めた。義兄は翌日、現在にして4,800万円ほどの現金を差出し「これは人間の命のために私が使う金だ」と言ったというから、彼は、よほど人に恵まれていた。
宗教家としての倫理観から、小辻は賄賂を贈ろうとはしなかった。「ユダヤ人問題に関心のある者として、警察幹部の方々とゆっくり話がしたい」と持ちかけ、神戸随一の料亭の、豪華な会食で彼らをもてなした。
3度目に小辻は、切々とユダヤ難民の窮状を訴え、日本滞在の延長を許可して欲しいと頭を下げた。打ち解けていた彼らは快諾した。1回の申請につき15日ずつ延長しようと。
(次回に続く)

ユダヤ難民が滞在した「神戸シナゴーグ」建物外観

門柱に掲げられた関西ユダヤ教団の表札

(2017/10/03)