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知と意志をもって女性の解放を ~平塚らいてう~ その1 |わたしの歴史人物探訪

はじめに

1979(昭和54)年、国連総会で採択された「女性差別撤廃条約」を日本が締結したのは1985(昭和60)年。
それから約30年という長い歳月を経て、2016(平成28)年に「女性活躍推進法」が全面施行されるなど、今や女性の社会での活躍は国をあげての重要な取り組みとなっている。
そんなわけで今回は、良く学んで得た「知」と、生得(しょうとく)と思われるゆるぎない「意志」で、女性解放と平和を訴え続けた、平塚らいてうの生涯の一端をお伝えしよう。
「青鞜社(せいとうしゃ)」を立ち上げた際から用いた筆名「らいてう」は、現在なら「らいちょう」で、「雷鳥」は高山に生息し「孤独の鳥」と呼ばれる。
彼女が、これから進もうとする道への固い覚悟を表しているようで、当時からの表記「らいてう」にしたがおう。

私の手元に岩波文庫版「平塚らいてう評論集」がある。
2002(平成14)年に表題「平塚らいてう:近代日本のデモクラシーとジェンダー」を書かれた米田佐代子さんが巻末に、らいてうの思想の軌跡をたどって解説をされている。
少々難解だが、参考にさせていただく。

生い立ち

本名、平塚 明(はる)は1886(明治19)年に東京で、優秀な高級官僚の父と、医師のむすめだった母の間に三人姉妹の末っ子として生まれた。
父はドイツ語を能くし、海外を巡遊した人だったから、開明的な家庭だったようだ。
恵まれた環境に育ったらいてうは、学校に上がっても、首席を通し、両親の期待を背負って、自由を満喫しながら長じたと伝わる。高等女学校の良妻賢母育成教育に馴染まなかった彼女は、さらに進んだ日本女子大学でも同様で、宗教、哲学と幾つかの精神的な試行錯誤を経て、紹介された日暮里の「両忘庵」(りょうぼうあん)で禅の修行に励んだ。
晩年「禅をやっていなかったら、ずいぶん行動とは縁のない人間になっていたと思う」と語っているから、禅が、らいてうの精神的な支柱を構築する一助となったのは明らかだろう。

大学卒業の日のらいてう

そしてまた「生きることは行動することである。ただ呼吸することではない」と述べていることと併せて、実践を終生忘れなかった彼女を育んだといえよう。
禅修業が認められたことを指す「見性(けんしょう)※1」を許され慧薫(えくん)という「安名」(「あんみょう」※2)を受けたのは20歳の折だ。
大学卒業後も学びを続ける彼女が英語学校の文学講座で、講師の森田草平と出会ったことが、彼女の将来を定めたといって良いのかもしれない。

 

※1:〘仏〙 修行によって表面的な心のあり方を克服し、自分に本来備わっている仏の真理を見きわめること。
※2:〘仏〙 禅宗で、得度(剃髪出家すること)・受戒(仏の定めた戒律を受けること)した者に師の与える法名(ほうみょう)。また、それを記した文書。(ともにコトバンクより)

「青鞜社(せいとうしゃ)」の発足

既に妻子のあった彼との恋の真相がどんなものだったかは不明だが、観念的な言葉でつづられた海外小説の影響を強くうけた22歳のらいてうが、大人になるために経験しなければならなかった、死の願望への一途さと思われてならない。
付き合い始めてすぐの3月、栃木県の塩原温泉に出かけた二人は、心中未遂事件を起こす。
雪深い中で発見された二人は、ときの新聞社に格好の記事素材を提供した。
夏目漱石門下の帝国大学出の修士と才媛の騒動は、面白おかしく書きたてられ、二人の名を世間に知らしめた。
らいてうは知人のつてで信州松本に心身を休めるが、冬を迎えて帰京し、禅の修行と英語学習に励みながら、自らが進むべき道を模索していった。
事件によって、女性である自分に投げかけられる嘲笑、罵声、人格を傷つけ心を引き裂く言葉と文字は、勝気ならいてうを奮い立たせる起爆剤だったとしかいいようがない。
森田壮平は秋にはこの体験を小説「煤煙」に描いて新聞に連載され、一躍作家として認められるが、彼女にはそれはもうどうでも良いことだったのだろう。

青鞜社発祥の地の銘板(東京都文京区)

25歳になったらいてうは同志と語らって「青鞜社」を立ち上げ、女性文芸誌『青鞜』を発行し始めた。
資金には、母が用立てた、らいてうの結婚準備金を充てたという。
明治末の世間というものと、特に女性に対する世間の目と、いやおうもなく対峙したらいてうは、女性自身が、自らが置かれている社会の不合理さに目覚め、自身を確立させて、当たり前の人間としての権利を、女性自らの手で掴み取らなければならないのだと確信していた。
そして創刊号に、今も、これからも燦然と輝きつづけるに違いない一文を掲げた。
「元始(げんし)女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である」で始まる。
そして「女性よ、汝の肖像を描くに常に金色の円天井を選ぶことを忘れてはならぬ。よし、私は半途にして斃(たお)るとも、よし、私は破船の水夫として海底に沈むとも、なお麻痺せる双手を挙げて『女性よ、進め、進め』と最後の息は叫ぶであろう。」と決意を語る。

明治から戦後まで、その生涯のほとんどを社会的発言に費やした彼女の行動は「青鞜社」についてはよく言及されるが、以降の活動について、特段の注目も掘り下げもあまり為されてこなかった。

(次回につづく)

 

 

 

らいてうの蔵書印が捺された『青鞜』創刊号(日本女子大学所蔵)

(2019/04/23)