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深い学識と真心をもって 日朝の懸け橋に(その1) 雨森 芳洲(あめのもり ほうしゅう) |わたしの歴史人物探訪

はじめに

近年の日本と韓国の関係は、竹島や慰安婦の問題もあり、冷え込んでいるといえようが、多くの人びとが日韓外交関係の改善を望んでいるに違いない。
雨森芳洲は、300年ほど昔の江戸時代に儒教の国・朝鮮との交接には欠かせない儒学を修め、その言語も良く学んでこれに通暁し、日朝の交流に誠心誠意を尽くした人物だ。

生い立ち

雨森芳洲(通称、東五郎)は1668年、現在の滋賀県長浜市高月町雨森に医師の父をもって生まれた。「芳洲」は「号」、学者などが本名のほかに用いる「雅名」であるが、広くこの「号」で知られているので、以下これで通す。
戦国時代に、織田信長によって滅ぼされた浅井の居城のある小谷の山を望むこの地に生まれたのだから、先祖は浅井にしたがって、それなりの辛酸を味わったに違いなかろう。雨森地区は今、水車が回り、鯉が泳ぐ清流に囲まれていて、生誕の地には雨森芳洲庵(東アジア交流ハウス)がある。この施設には、芳洲の遺品、著書と多くの文献が備えられ、広く公開されているだけでなく、ほぼ毎夏、韓国の高校生が何日かをここで過ごして市民たちと交わり「民際(市民同士の交流)」を果たしていると聞く。
12歳で京へ上り、家業を継ぐべく医学を学ぶが、16歳で父を失った芳洲は、魅かれていた儒学を学ぶべく江戸へ出て、優れた儒学者、木下順庵の門に入った。この塾で良く学び、新井白石、祇園南海らとともに「木門の五先生」と謳われた彼は、22歳の折に師の推挙の元、儒学者として対馬藩に仕えることとなった。

東アジア交流ハウス雨森芳洲庵

雨森芳洲庵・資料展示室

 

 

 

 

 

対馬藩の立場

1592年から7年間の豊臣秀吉による軍事侵略は、朝鮮の人びとに甚大な被害を与えた。
米作などに適さない対馬にとって、朝鮮との貿易は欠かせないものであったため、国交回復のために使節を送っていた対馬藩は、徳川家康から修好の任に当たるよう命じられた。
こうして1609年「己酉(きゆう)約条」が結ばれ、交易が再開されて以降、鎖国政策が採られた後も朝鮮との外交は続けられ、その実務は対馬藩に委ねられてきたのだった。外交文書はすべて漢文で記されることや、朝鮮は儒教の国であることから、それらに秀でた学者が藩には必要だった。
出仕して4年間は江戸藩邸に住んで儒学を続けたが、自らの役目を悟る彼は、翌年から本格的に中国語を学び始めた。そして、24歳の折、願い出て中国語の先進地、長崎での学習を始めた。

対馬へ

26歳の折、命じられて対馬に入った芳洲は、藩主を教育する学者として、朝鮮との外交文書に係る「真文役(しんぶんやく)」の仕事に当たった。そして、29歳の折に藩の名家の娘と結婚した芳洲は、対馬を軸に長崎、江戸、釜山と忙しい生涯を送ることとなった。
30歳で「朝鮮方佐役(ちょうせんかたさやく)」に任じられ、藩にとって最も重要な朝鮮外交の実務に当たる、家老の補佐役を務めることとなった。漸く、藩が芳洲に求めた職責に就いたといえよう。外交や貿易の実務経験の無い彼は、持ち前の向学心を十二分に発揮していった。
対馬と朝鮮には双方に外交使節がおり、朝鮮からの使節は「訳官使(やくかんし)」、日本からの使節は「参判使(さんはんし)」と呼ばれ、藩主が替われば派遣されていた。
さて、釜山には広大な敷地を擁する「倭館(わかん)」と呼ばれる施設があり、通訳、外交官、貿易実務者など、多くの藩士が住んでいた。使節の一員として、初めて朝鮮の地を踏んでここに入り、応接を受けた芳洲は自らの職責を果たすには、朝鮮語の完全な修得の必要性を痛感した。釜山への留学を許されての学習は、彼の言葉では「命を5年縮める覚悟で昼夜油断なく勤めた」ものだった。また、言葉だけでなく、朝鮮の社会の実情、その習慣、地理、歴史、人情、風俗にも通じなくてはならず、芳洲の学習は留まるところがなかった。
そして「交隣須知(こうりんすち)」と題された朝鮮語の実用的学習書を著わした。この書は明治初期まで広く活用されたという。芳洲は、中国語、朝鮮語、日本語を自在に操る、国際的儒学者であった。

朝鮮通信使

朝鮮通信使の概要については、先述の報告書を参考にされたいが、1607年から初期の3度は「回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし)」と呼ばれ、秀吉軍が捕虜として連れてきていた人びとの調査と、朝鮮への返還という、侵略戦争処理の色が濃いものだった。
1711年、6代将軍徳川家宣の就任を祝う通信使がやってくることとなった。家宣は元来、甲府藩主であったが、5代将軍綱吉の養子に入って、6代将軍となった。藩主の侍講学者だった同門の新井白石は、今や将軍の側近として力を奮っていた。白石は、朝鮮通信使の扱いや、外交文書について多くの変更を決定した。しかし、外交の諸事については、相手国の立場や体面を傷つけないこと、相手の理解と同意が欠かせなかろう。また、経費節減などは同意できたとしても、将軍を「日本国王」と文書で変更することは認められない。日本には天皇が居るのだ。
芳洲は厳しい意見書を幕府に送った。公然と幕府の決定に異を唱えれば、厳しい処罰を被るかもしれない。しかし深く身を節して築いてきた彼の学問と思想は、そんな保身を顧みさせはしなかった。
押し切られた対馬藩は、芳洲を釜山に派遣し、漸く了承を取り付けたのだった。しかし、もう一つ、あまりに細かい習わしの問題だから詳細は記さないが、国書中の朝鮮国王の「諱(いみな)」の扱いについて、朝鮮側には絶対に受け入れられない点が発見され、大問題に発展した。
8日間にわたる深刻な紛争の中、芳洲は両国の対等な関係を重んじ、友好関係を損なわないよう、調停に努めた。そして、書き改めることに漕ぎつけたのだった。ほぼ1年、漸く使節一行を朝鮮に送り出したとき、芳洲の豊かな学績と人間性は、万人の認めるところとなったのだった。

銀輸出制限を巡る交渉

対馬藩は主に銀を朝鮮に輸出し、人参、生糸、絹織物を輸入して、収益を上げていた。銀の大量流出を憂える白石は対馬藩に対して制限を告げ、朝鮮側への申し入れも命じた。しかし、銀輸出が制限されれば、領地の狭い対馬の藩政は立ちいかない。白石との交渉に、芳洲の力量は必須だった。大陸からの防備と外交を担ってきている対馬藩の立場と役割を堂々と論じ、時間はかかったが、白石の同意を取り付けたのだった。
芳洲は自らの見識をよく理解していたから、白石のように、中央政府での政策決定に係わってゆきたいという、抑え難い欲求を持っていたようだ。そうした、白石に宛てた手紙が残されている。その白石も、7代将軍家継が僅か3年で逝去するとたちまちに失脚し、芳洲の微かな希望は完全に潰えたのだった。

(2018/11/05)