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深い学識と真心をもって 日朝の懸け橋に(その2) 雨森 芳洲(あめのもり ほうしゅう) |わたしの歴史人物探訪

享保の通信使

芳洲がつぎに通信使を迎えたのは1719年、8代吉宗が将軍職に就いた祝賀のためのものだった。475人に上る一行は、釜山から対馬へ。壱岐島から藍島を経て、関門海峡を抜けて瀬戸内へ入るのだが、天候が荒れれば、対馬や壱岐島に長く留まることとなる海路だった。牛窓、室津などの景勝地を進み、大坂から京へは川船。大津から大垣をへて東海道を進む陸路となる。4月に朝鮮を出発した一行が、江戸へ到着したのが9月26日というのだから、大変な旅であることが想像できよう。華やかな衣装に笛太鼓の楽の音を響かせ、大勢の見物人に見守られながら、江戸城へ入るのだ。

何事もなく、国書を取り交わした一行の前に、帰路の京都で厄介事が立ちはだかった。京での宿泊場所として幕府が定めたのは、彼らにとっては憎むべき秀吉の命で建立された方広寺であり、その寺の前には、朝鮮への侵略戦で、討った敵の首の代わりに、耳や鼻を送らせ、それらを埋めた「耳塚」があるのだ。

前回は、前もって宿泊所を報せず、耳塚には、白石と打ち合わせて囲いを設けていたが、今回は、決められたことには逆らえず、芳洲は朝鮮語と日本語を交えながら、何とかこの事態を乗り越えたのだった。しかし、この恫喝も交えた説得を彼が苦しい、忸怩(じくじ)たる思いでなしたことは想像に難くない。芳洲は52歳になっていた。後に、61歳の芳洲が著わした「交隣提醒(こうりんていせい)」の中で「こんなことをすれば、我国の学問の無さ、無知を露呈するだけ」で、止めるべきと言い切っている。

将軍吉宗に重用された林大学頭(はやしだいがくのかみ)は、通信使を迎えて、幕府要人たちの朝鮮への無知に気づき、芳洲に助けを求めた。芳洲は「朝鮮風俗考」を著わし、ありのままに朝鮮の歴史、国情を述べ、人情や風俗をかたっている。そして、相手国を軽んじようとする日本人の愚かさを批判し、隣国との対等の立場を大切にし、平等互恵を説いた。

朝鮮語通訳の養成と「交隣提醒」「誠信堂記(せいしんどうのき)」の執筆

1721年には「朝鮮方佐役」は辞任していたものの、側用人、裁判(外交官)を長く務めることとなる。

朝鮮国との交わり無くしては成り立たない対馬藩にあって、その言葉を自由に操れる通訳が多く必要なことは自明だったことから、芳洲は「韓学生員任用帳」という通訳養成策を藩に提出した。藩政を考えるとき、数十年先を見据えて、藩内で人材を育てるのが大切と説き、朝鮮語だけでなく、藩の用に役立つよう、学問も積ませなければならない、とも述べている。

そして1727年、朝鮮語学校「韓語司」が創設された。教育に当たる芳洲は「両国が真心をもって外交するとき、通訳ほど重要な役はない。が、言葉が巧みであればよいのではない。通信使の行き来のしきたり、朝鮮の実情を学ぶことも大切だ」と述べている。

そして61歳の折、先ほど少し触れた「交隣提醒」を著わした。この書は、朝鮮との交わりにおいて注意すべき点を54の箇条書きにしたものだ。そして54条に、誠信外交について「誠信とは、互いに欺かず争わず、真実をもって交わることだ」と締めくくっている。

そして62歳を迎えた芳洲は、朝鮮との米貿易の交渉を委ねられ、2年ほど朝鮮に滞在した。これが最後の釜山出張となる。交渉相手は玄徳潤(ひょんどぎゅん)で、彼は1712年の通信使の翻訳官で互いを認め合い、尊敬しあっていたのだった。

彼は、釜山にあった古びた朝鮮庁舎を建て替え「誠信堂」と名付けた。これに深い感慨を覚えた芳洲は「誠信堂記」を書き上げた。

「長い間、風雪に晒され、崩れかけた役所を、玄徳潤君は『これでは国を輝かせることも、役人たちを尊敬させることもできない』と嘆き、私財を投じて厩(うまや)に至るまで立派に改築し、これを『誠信』の堂と呼んだ。『交隣の道は誠信にあり、この堂に居て交隣の職に就いた者は、このことを深く思わなければならない』と述べた。彼は公に奉ずること慎み深く、自らを戒め、後進に誠信を勧めて一途である。私はたまたまこの地を訪れ、そのことを知って深く心を動かされ、この一文を著わした」と述べている。

ともに交隣の道に身を置き、誠信の外交を尽くしてきた一念に触れた喜びを語ったのだ。この書は誠信堂内に掲げられ、朝鮮の人びとの胸にも焼きついたという。

晩年の芳洲

職を辞した後も、執筆の作業は続き、66歳の折に中国、朝鮮、日本の学術や歴史、風俗、言語について上・中・下三巻の随筆集「たはれぐさ」を書いている。又、68歳では「治要管見(ちようかんけん)」を書いて対馬藩主に奉じている。国を治めるため、藩主として心がけるべき点を、君徳、武備、財用、奢侈、倹約、賞罰、号令、交隣、育材など、多面に亘って述べており、その動機について、この対馬の地に骨を埋める決心をした彼は、ご先代からご厚恩を被ってきたから、後日の戒めにもなるかと考え、遠慮なく申し上げた、と述べている。

80歳を超えても矍鑠(かくしゃく)たる芳洲は漢文での随筆集「橘窓茶話(きっそうさわ)」を書き上げた。学問についても触れ、「単に知識を増やして立身出世や金儲けをするためでなく、真の人間になることが学問なのだ」と諭している。

1748年、先に長男を失っていた芳洲は、孫に家督を譲って公式に隠居した。この頃から和歌を志し「古今和歌集」を千遍読み通し、一万首の和歌を詠もうと決心するのだから、その向上心というべきか、向学の執念には驚かされる。

そして1755年、隠居所で88歳の生涯を静かに閉じた。

雨森芳洲像

雨森芳洲肖像画「芳洲会」   所蔵資料

 

 

 

 

 

 

おわりに

考えてみれば、芳洲はその長い生涯に華々しい功績があったとはいえないかもしれないし、大失敗を犯したことも無く、まあ平穏な人生を過ごしたといってよいのかもしれない。医術から儒学へと学問を変えたことが、彼を対馬へと向かわせた。

対馬藩の学者として朝鮮との外交の窓口を務めてみれば、同門の新井白石が将軍の用人として務めており、大所高所から出してくる外交上の指示に対して「自分ならこうする」との自意識や対抗心を持っていたには相違ない。

しかし、やはり、対馬に彼を推薦した、師の木下順庵は慧眼の持ち主だったのだろう。

対馬藩の外交官だからこそ、彼の最も優れた面を発揮できたのではなかろうか。芳洲自身はそのことに気づいてはいなかったのだろうが。一小藩の外交官だったから、相手とする朝鮮の人びとに対して何を学び、何を大切にして向き合うべきなのか、真摯な態度で探り続け得たのではないか。

それは、聡明で、誠実で意志堅固な雨森芳洲にしかできなかったのだと、筆者は思う。

(2018/12/04)