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大津波から命を守れ! 濱口梧陵と、彼の功績を広く知らしめた 小泉八雲 その2 |わたしの歴史人物探訪

小泉八雲の生い立ち

本名、パトリック・ラフカディオ・ハーン(Patorick Lafcadio Hearn)は1850年、当時は英国領だったギリシャのレフカダ島に生まれた英国人。
英国軍医の父とアラブ系ギリシャ人の母の間に生まれた彼は、人種的な差別心とはもっとも遠いところで、その生涯を過ごし、このことが彼の文学を特徴づける根源となっている、ともいってよいのだろう。
少年期をアイルランドのダブリンで、厳格なカトリック文化の中に育ったのだが、このことが逆に彼を、キリスト教嫌いへと進ませるようになったといわれている。仏国や英国の大学で学んだ彼は、フランス語を得意とし、これを武器に、米国に渡って文芸評論から報道記事まで広くを手掛けて成功を収めていった。
米国での執筆活動は、さまざまな新聞社、出版社を舞台に続けられていったが、1884(明治17)年、ニューオーリンズで開催された万国博覧会で、後に文部省の局長を勤める服部一三と知り合い、日本文化について深く教示された。34歳だった。
2年ほど仏領西インド諸島を旅して米国に帰国したハーンは、日本への旅行を経験した女性新聞記者から、いかにその国が清潔で魅力にあふれた存在であるかを聞かされたのだった。
報道者としても、女性としても尊敬し、憧れていた彼女の言葉に、彼は来日を決意したという。
一説には、英訳された「古事記」を読んで、日本に非常な興味をいだいたのだ、ともいわれている。

日本にて

米国、ハーバー・マガジン社の通信員として、横浜港に立ったのは1890(明治23)年の4月。40歳になっていた。
その後、社との間にどんな問題が生じていたのか不明だが、ハーンは職を辞してしまう。そんな彼に、万国博で知り合っていた服部一三は、1年契約で島根の中学校と師範学校の英語教師の職を斡旋してくれた。
「初めて感じた日本の魅力の捉え難さと散じ易さは、さながら芳しい香りのようだ。初めて俥(くるま)なるものに乗って、横浜の外人居留地から日本の町へ繰り出したのが、日本の魅惑の始まりだった」と綴られてから、出雲の国、松江へと続く日本への叙述は「知られぬ日本の面影(Climpses of Unfamiliar Japan)」の上下二巻に著された。
そして、明治20年代の、古い日本と新しい日本の混ざり合った一地方都市 松江へ、「神々の国の首都」の記述は見事だ。
人びとの日常の生活をよく見守り、その心を読み取ろうとする姿勢。鋭い感受性で描かれた見聞記は、みずみずしい感動を伴う、優れた文学作品だ。
このデビュー作で、彼への評価は定まったといって良い。
中学校教頭の勧めもあり、旧松江藩の士族の娘、小泉セツと結婚したハーンは3男1女の子にも恵まれ、熊本の第五高等学校のほか、職を転じながらも、執筆活動を続けていった。
妻となったセツは聡明な女性で、日本語の読めない夫の頼みに応じ、さまざまな日本の民話、伝説などを収集してハーンに提供した。著名な「怪談・奇談」などは、そうして出来上がった最高傑作といって良かろう。
セツは八雲の没後、彼との生活を回顧して「思い出の記」を書いた。「本を読みながら話しますと『本を見る いけません ただ貴女の話、貴女の言葉、貴女の考えでなければいけません』」と言ったという。ハーンには彼なりのこだわりがあったのだろう。
1896(明治29)年、東京帝国大学の英文学講師を勤めるハーンは、日本に帰化して小泉八雲と名乗った。日本で初めて暮らした、出雲大社のお膝元「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を」から取ったのだ。
その後早稲田大学の講師も勤めるが、1904(明治37)年狭心症で亡くなった。享年54。

濱口梧陵とのかかわり

濱口梧陵銅像

八雲の多くの書の中に「生神様(A Living God)」がある。日本における「社(やしろ)」のありよう、それに対する日本民族の信仰のありかた、宗教に対する、素朴で純正な姿勢を。欧米の人びとの宗教観とかけ離れた日本人のそれを伝えようとして起筆されたものだ。
続いて後半に、濱口梧陵が「生神様」と崇められたいきさつを叙している。
が、妻のセツが八雲に伝えた資料に誤りがあったのか、あるいは、彼が内容を改竄(かいざん)して、より、読み手に感慨深く受け取られるよう作為したのか、不明だ。梧陵は死後に、その銅像を建てられはしたが、神として祀られてはいないし、まして生神様になどなっていない。
そして安政南海地震の津波への対処の内容は、梧陵が伝えたものと大きく異なっているのだ。
が、後に思いもよらぬ影響を齎(もたら)した八雲の手になる一文の概要をお伝えしよう。

「稲むらの火(A Living God)」とは

濱口梧陵の故郷、広村の隣町、湯浅町出身の中井常蔵は、師範学校在学中に「A Living God」を読破して、感銘を覚えていた。
1934(昭和9)年、文部省の国定教科書公募がなされると、彼は児童向けに再構成して翻訳し「燃ゆる稲むら」と題して応募した。具体的な年代や場所などの記述を省き、普遍的な物語としたのだ。
「濱口五兵衛(梧陵は八雲の作品では「五兵衛」となっている)は事実と異なり老人で、村長のような存在であり、海を見下ろす高台の大きな家に住んでいた。
稲の刈り入れの終わったある秋の夕方、庭から下の村の祭りの準備の様子を眺めていた。五兵衛は地震を感じた。緩やかだが、何度か遠くで大きな地震が起こっているのを。海を眺めれば突然、海は暗くなり、陸から遠ざかってゆくではないか。
引き潮は、大津波の予兆であることを、彼は祖父から聞いて知っていた。寺に報せて、鐘を鳴らしてもらう時間の余裕はないようだ。松明を灯した五兵衛は、取り込みを待つばかりの何百の稲の束に、火を放っていった。寺の小僧も炎に気づき鐘を鳴らし始めた。
村人は異変に驚き、続々と高台の五兵衛の元に集まってきた。「村人は皆集まったか?」それを確認したとき、津波が下の村に襲い掛かった。
「あれが、私が稲に火をつけた理由だ」。村の長者は、今や何もかもなくした村人と同じく貧しかった。
が、彼は言った「私の家が残っている。大勢が入れる部屋があるし、丘の上の寺もある。皆避難できる」と。
人びとは彼への感謝を忘れなかった。「村を立て直した時、彼の霊魂を祀った社を建てて、金文字で彼の名前を示した額を正面に掲げた」と。

おわりに

濱口梧陵碑

「稲むらの火」は1937(昭和12)年から1947(昭和22)年まで小学国語読本に採用されたし、2011(平成23)年度から利用されている小学5年生用教科書「国語 五 銀河」には「百年後のふるさとを守る」と題して、防災学者の河田惠昭(よしあき)が書いた濱口梧陵の伝記が掲載された。この中には「稲むらの火」の一部採録を行うとともに、濱口梧陵の事績を紹介し、津波後の復興事業も含めて描かれている。
「稲むらの火の64年ぶりの復活」とも呼ばれた。
2015(平成27)年12月22日の第70回国連総会で、142か国が提案した「安政南海地震による津波の日、11月5日」を「世界津波の日」に制定する案が、全会一致で承認された。
偏(ひとえ)に、小泉八雲が濱口梧陵の行動に感服して書き綴った、一作品から引き起こされたことだ。
贅言(ぜいげん)を恐れずいうなら、その功績は甚だ多大と。

耐久社(梧陵が開いた若者達を育成する稽古場)

濱口梧陵墓

(2019/12/09)