/*********************************************** * Style Sheet Switcher v1.1- © Dynamic Drive DHTML code library (www.dynamicdrive.com) * This notice MUST stay intact for legal use * Visit Dynamic Drive at http://www.dynamicdrive.com/ for this script and 100s more ***********************************************/
今回紹介する「石田梅岩」は、江戸時代を生きた、偉大な思想家、学者であり、この人の成し遂げた、成し遂げようとした「もの」は、とても筆者ごときが、よく語り得るものではない。
手元に森田健司博士(研究者。専門は思想史学)が書かれた『峻厳なる町人道徳家の孤影 石田梅岩』がある。
この書を参考に、また引用させていただきながら、彼の生涯と、その何とも偉大な成果物の一部を、できる限り簡明にお伝えしたいと思う。
その出来栄えに、自信がないことには、ご推察を願いたいが。
石田梅岩、「梅岩」は学者、教育者としての雅号。本名、石田勘平(以降、雅号の梅岩で通そう)は1685年、5代将軍、綱吉の時代に、京都の亀岡市、当時の東懸(とうげ)村の農家に生まれた。兄、妹の三人兄妹だった。
10歳の頃、自家の山と他家の山との境で栗を拾い、分別なく拾って来たと父に叱られ、すぐに栗を返しに行ったというエピソードから、律儀で正直な父の影響を受け、愚直なまでの律儀さを身につけたといわれている。
後年、教育者の道を歩むには、どんな自制と修養があったのか、察せられないほどの努力があったのだろうとしかいいようがない。
農家の次男坊は辛い存在で、口減らしのため、村を離れ、商家の奉公か、職人に弟子入りするしかなかった。
11歳で、京都の商家(一説には呉服商といわれる)に奉公に出る彼に、父は「奉公先の主人を親と思って仕え、仕事に打ち込んで、しっかり昇進できるように励みなさい」と語った。
これを心に深く刻んで、以後の4年間を過ごした少年には、後の梅岩の片鱗が既に宿っていたといっていいだろう。
当時の奉公は無給で、労働の対価は寝食の保証だけだ。
ただ「お仕着せ」の言葉があるように、盆暮れには主から季節に合った衣服、履物が支給されるのが通常だった。
が、梅岩の奉公先は、倒産寸前にまで傾いていた。出た折に着ていたぼろぼろの衣服で帰省した彼は、直後、実家に戻るが、親に一切を告げなかった理由を問われて「奉公先の主人を親と思って仕えよと諭され、その言葉を守っていたのです。僅かな不足さえも感じることなどありませんでした」と答えて母を泣かせたという。この後8年間、故郷で農作業、山仕事に励んだ。
東懸村での生活の日々に、書物や何事かの師匠が満足なほどにあったとは、到底想像できないが、独自で、読書と学びに精を出していたことは確かで、精神的な疲労も溜まったのだろう。20歳のころに胃を痛めた。
この危機を梅岩は、日の3食を2食に減じることで切り抜けた。
「胃の問題と、それへの対応の成功は、梅岩に思想的な影響も与える。自らの身体が欲する分量以上に食べ物を摂取しないことが、健康という良い結果を招いた。これは『足るを知る』という考え方の有効性が、現実の中で証明されたことを意味する。逆にいうならば、過剰な欲望こそが自分に問題を生じさせていたのだ。この『足るを知る』という考え方は、後に『倹約』という徳に昇華されることとなる」と森田博士は書かれている。
15歳で、奉公生活の挫折を味わった梅岩が、再び京の呉服商黒柳家に奉公に出るのは23歳の折だが、この時期、既に神道に深く傾倒していたし、学問と精神的なものへの関心が彼の中に明らかに育っていた。
黒柳家で仕事に励みだした梅岩は、寸時の余暇を読書に充てるようになっていた。「仕事と学問の両立」という後の彼の思想の中で中核となってゆくものだ。そして生来の真面目な性格もあって、大いに働き主人からの信頼を勝ち得て手代に昇進した梅岩は、ますます働き、学問に励むようになっていった。
ある時、遠方からの客に売り渡した反物に僅かな傷があったことを思い出した梅岩は、客のもとへ傷の無い反物を持って走った。
「彼のこの行動は、後ほど、叱責されないためだろうか。それとも、誠実さを見せることによって、店の信用をさらに高めるためなのだろうか。そのいずれも否である。彼はただ、傷のある商品を売り、それに気付いた後も取り替えに走らないという、この行為自体を反道徳的であると考えたからである」「こういった行為は、どう理解すればよいのか。あるいは、この行為の源泉を、どういった言葉で語れば良いのか。梅岩にはわからなかった。彼が生きている商業の世界は、社会と深く関連していた。もし、自分のような商人にとっての道徳を考察しようとするなら、社会の在り様にも、理解が及んでいなければならない。そして、その社会には、儒学の要素が染み渡っていた」と森田博士は書かれている。
梅岩は、深く儒教の学びへと進んでいったのだった。
了雲の父は越後高田藩の筆頭家老の分家に生まれたが、不幸なお家騒動に巻き込まれ、京へ逃れ住んでいたようだ。
儒学を深く修めた了雲は普化宗(ふけしゅう)の仏教も深く解して、いわゆる虚無僧を業とする、まさに隠棲(いんせい)の大学者だった。
学びと思考を重ね「人の人たる道」を語り得るに至ったと自負する梅岩は、小栗了雲に自説を披露して意見を求めた。
「心が何かわからず、迷っているのだろう。おまえはその上、他人まで迷わせたいと思っているのか。心は人の主人のようなものである。自分の主人を知らないのであれば、それは無宿人のようなものだ。自分に定まった住所がないのに、他人を救うことなんて到底できはしないぞ」。
梅岩は、その人生でたった一人、師らしき人を持つこととなった。
(次回につづく)
(2020/04/27)