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「人の人たる道」に生涯をかけて(CSRの原点、石門心学) 石田梅岩 その2 |わたしの歴史人物探訪

思想家、教育者の道へ

やがて、17歳年上の了雲は、梅岩に看取られながら、静かに息を引き取った。
そして師に導かれるように梅岩は黒柳家を辞し、自宅を入手して教室とし、講義を始めた。
梅岩は生涯独身を通したから、この辺りは全く身軽だった。
聴講は無料、紹介者も不要、男女ともに大歓迎、類を見ない革新的な講義だった。
梅岩は45歳になっていた。
昨日までは商人で、学者として全く無名なだけでなく、名のある師匠のもとで学んだ実績も無い梅岩の講義を聴こうとする物好きは、いなかった。つまり、当初は誰も来なかった。

梅岩講釈の図
ガレリアかめおか内(心学講舎)にて撮影

しかし、こんなことで落ち込む梅岩ではなかったので、独り言のような講義を辛抱強く続けたのだった。
やがて、2人が3人になり、4人が5人になり、少しずつゆっくりながら、梅岩の言葉が世の中に届き始めたのである。
当初の講義は、書を見台に置き、読んで解釈する、ごくありふれた形で行われたが、その書物が、なんとも雑多なものだった。
儒学の経典は当然だが、荘子、老子から徒然草や日本の天皇、武士、僧侶などの、過去の金言や善行を著した「和論語」まで加わっていて、いったい人々に何を教えようとするのか、分からなくなってしまって当然かもしれなかった。
「しかし、実はこれこそが、彼の学問の独自性なのである。梅岩は、ここにある書物の内容を知り、解釈すること自体を、目的としていなかった。彼がめざしていたのは、『人の人たる道』を体得させることであり、そのために『性(しょう)を知る』段階まで聴講者を引き上げることだった。究極的には、書物の内容など、実はどうでもいい。それが梅岩の姿勢だった。儒者や僧侶の耳に入れば、激怒されそうな考え方である。彼にとって、文字で書かれた学問は、自分の心を磨くための材料であり、あくまで道具でしかなかった」と森田博士は解説している。
江戸中期の京都で、商人上がりの梅岩の講義を、批判したり、馬鹿にして笑ったりする者は多かったかもしれない。
しかし、彼の怯むことない継続は、やがて多くの聴講者を迎えていった。
彼の生活は簡明なものだった。夜明け前に起床、手洗い、掃除、礼拝、簡素な朝食、そして少々の休息の後、講義、訪問者への対応、夕方には再度掃除をして、手を洗う。
日暮れから始まる講義は、午後の8時まで続いた。

さらなる学びと著作の完成

梅岩の学問に初期の段階から共鳴して、高弟となってゆく者は数名いたようだが、後に、梅岩の思想を広く世に知らしめる力となる、手島堵庵(とあん)がやってきた。
彼はまだ18歳の、豪商の子息だったが、既に確かな教養を身に着けていた。
この頃、常連の聴講者たちから、「より高度な講義の形、双方向での演習も望む声が出始めた。そこで始められたのが、『月次の会(つきなみのえ)』」で、月に3度、夜の講義の後、「梅岩と参加者の間で問答が行われた。つまり、梅岩の考えを一方的に聴くのではなく、参加者たちも自身の思うところを発表するのである」「ここに集う人びとは、後に門弟と呼ばれる存在になっていく。門弟といっても、梅岩と彼らの間に取り結ばれた関係は、通常の師弟のそれとは随分と違っていた。上下関係というよりは、親しい間柄の友人のようなものだった」と伝えられている。

都鄙問答の碑

やがて、「月次の会」などの問答を一冊の書にまとめようと、門弟たちと修正と校正をともに進めたのだった。
完成した書の表題は『都鄙問答(とひもんどう)』。公刊は1738年、梅岩、55歳、講義を始めてから10年が経っていた。
「都会に住む者と、田舎から出てきた者」との問答は「正しく学問を修めた者とそうでない者」の意が込められている。

晩年の梅岩とその思想

その6年後『倹約斉家論(けんやくさいかろん)』を著すが、この書が出版されて4ヶ月後に亡くなる、急性の食中毒だったといわれている。
遺されたのは書籍と、日常品の数々のみ、財産らしきものは何もなかった。
「私には兄弟がいて、甥もいますので、先祖の祭りを廃する心配はありません。私は子孫を持ち、自分を祭って欲しいなどと、願ってはいないのです。我が身を捨ててでも、正しい道が行われる、それが願いです」と。その通りに生きた梅岩だった。
梅岩の思想とは何だったのか、2冊の書から、考えてみよう。

石田梅岩の墓所

まず、梅岩は「孝行」を大事にする。「孝行において重要なことは、父母の心を乱さないこと。そして、名誉や利益、つまり自身の名利を求めないことである。自分に『これが正しい孝行だ』という考えがあっても、結果的にそれが父母の心を穏やかにしないものであったならば、その時点で失格なのだ。また、孝行に励むことで周囲から評価されることもあるが、初めからそれを意識した行為は、到底孝行とは捉えられない。『孝』は、常に父母にのみ向けられたものでなくてはならない」と。
そしてまた珍しく、武士の道について語ってもいるので紹介しておこう。
「主君への忠心が第一と心得ること」「父母への『孝』と、極めて似ている。そもそも梅岩は、商家の場合と同じく、一旦武家に入れば、主君を親と捉えるのが当然と思っていたはずである。孝と忠に共通性があるのは、その意味で何ら不思議なことではない」そして「主君は『口』で家臣は『手足』である。手足は口が物を食べてくれないと、動くことすらできない。だから、口のために一生仕えることも、当然と思わなくてはならない。(中略)主君と家臣は『一つの身体』なのである。手足たる家臣は、そのことをしっかり認識した上で、正直に働くべきだろう」と。
梅岩の思想の中で、最もよく知られるのは商業についての、優れた考察と言葉だ。
当時の、特に儒学者たちは、貨幣経済が発展してゆく中での「商業」の意義を理解しようとせず、商人は私欲のままに暴利を貪ろうとする者、と断じて憚(はばか)らないところがあった。
梅岩は、的確にこれを撥ね退ける。
「商人で道を知らない者は、貪ることばかりをして家を滅ぼします。商人の道を知れば、欲心を離れ、仁心で以て努力し、正しい道に適(かな)って家が栄えるでしょう。商人が学問をすることの効用は、ここにあります」「商人の社会的役割とその価値を力強く主張する一方、商人たちには正直と正義に適った行動を要求する。短期的な金銭的利益よりも、心を育てることで、長期的な利益を取ることを選ぶべきということだろう。彼の教説が、後に心学という名称で呼ばれることも、納得できる話である」と。
二重の利を取り、甘き毒を喰い、自死するようなこと多かるべし。実(まこと)の商人は先も立、我も立つことを思うなりと、今でいう企業の社会的責任(CSR)の思想というべきだ。
そして、学問をすることは、自分の心という田圃(たんぼ)に肥料を流し込む作業に相当するという。
しかし、学問だけでは、田から獲れる米の収穫量は極大に達しない。そうなるためには職分に励む、つまり土を耕すという「仕事」も必要なのだ。
「梅岩の学は、学問をして道徳的に成長しつつ、仕事にも全力で取り組む人々を作り出すものとなった」と。
そして『倹約斉家論』で倹約を説く梅岩は「社会が安定するためには、修身、そしてその結果としての斉家が実現されなくてはならない。(中略)社会を平和なまま安定させるためには、各人の絶え間ない努力が必要とされるからである」と。
倹約に必要なことは、私欲を払拭する絶え間ない努力だ。
その先にあるものは「世界の和合」だ、梅岩が見据えた先は目がくらむほどに広大だ。

おわりに

人は何のために生きるのか、梅岩にとっては、この社会をより和やかなものとし、それを後世に受け渡していくこと「まずは自分が道徳家となり、つぎに周囲の人びとの心を、少しだけ、しかし確実に磨くこと。梅岩の学がめざしたところは、これだった。そして、それは彼の生き様そのものでもあったのだ」と森田博士は結んでいる。
梅岩の没後、先に紹介した手島堵庵らによって「石門心学」として、梅岩の思想は大きく広がっていったが、それは、また違う話だろう。
彼の一途で、純粋で、人びとに温かい眼差しを向け続けた59年の人生に素直に頭を下げたい。

石田梅岩先生顕彰会 取材の様子

(2020/05/22)