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漫画の神さまと 手塚治虫 その2 |わたしの歴史人物探訪

復活と晩年

しかし、1973(昭和48)年『週刊少年チャンピオン』に連載され始めた『ブラック・ジャック』は何とも新鮮で上質な漫画で、一気に後期の手塚治虫の代表作へと駆け上がっていった。続く『三つ目がとおる』も好評で、彼は見事な復活を遂げたのだった。中断されていた『火の鳥』の連載も復活し、1977(昭和52)年には6つの連載を抱え、『手塚治虫漫画全集』の刊行によって「漫画の神さま」の地位を確かなものにしたのだった。1980年代に入ると青年漫画といわれる『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』などを発表してそれぞれ漫画賞を受けた。

1988(昭和63)年、病に倒れ入院して手術を受けるが、2ヵ月後に退院しても多作ぶりはまったく衰えなかった。同年11月、中国、上海で開かれたアニメーションフェスティバルに無理を押し出席して倒れ、帰国と同時に再入院したが、翌年の2月に亡くなった。60歳だった。最後の言葉は「頼むから仕事をさせてくれ」だったと伝わっている。

手塚治虫の漫画の主題と作成の信条

手塚治虫はその戦争体験から「生命の尊厳」を主題の一つに掲げた。自身の漫画が当然のこと、時代に合わせて変化してゆくのを肯定した上で「断じて殺されても翻(ひるがえ)せない主義がある。それは戦争はご免だということだ。だから反戦テーマだけは描き続けたい」と語った。

そして「漫画を描く際にプロ・アマ、さらにはデビュー作であろうがベテランであろうが描き手が絶対に遵守しなければならない禁則として、“基本的人権を茶化さないこと”を挙げ、どんな痛烈且つどぎつい描写をしてもいいが『戦争や災害の犠牲者をからかう』『特定の職業を見下す』『民族、国民、そして大衆を馬鹿にする』ことだけはしてはならない、『これをおかすような漫画がもしあったときは、描き手からも、読者からも、注意しあうようにしたいものです』」と述べている。

手塚治虫の功績

日本のアニメーション映画は、2001(平成13)年の『千と千尋の神隠し』、2009(平成21)年の『つみきのいえ』、2016(平成28)年の『君の名は』などそれぞれ国際映画祭で受賞する出来栄えで、実験精神をもってアニメーションの芸術性を追求する「アートアニメ」の分野でも日本の作家は高い評価を得てきた。宮崎駿監督が米アカデミー賞の名誉賞を受けたことでもそれは明らかだろう。

知識の不足から、成功したとはいえないまでも、手塚治虫がアニメーションの制作に苦しみながら試行錯誤と創意工夫を繰り返してきたことと「虫プロダクション」が多くの優秀な監督や製作者、描き手を世に送り出したことが、後の日本のアニメ作成全般に大きな影響を与え、日本を世界一の漫画動画生産国に押し上げているのは間違いなかろう。

終戦の翌年に発表された『新寶島』が「物語漫画」としての新しい手法で描かれたことが、後に著名な漫画作家に成長する若者たち、例えば、藤子不二雄(藤子・F・不二雄、藤子不二雄A)、石森章太郎(石ノ森章太郎)、赤塚不二夫ら、20名を下ることはなさそうな、多くの若者に大きな衝撃と影響を与えていったことも事実だろう。『鉄腕アトム』が後の『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』へ続いていったことも確かなことのように思われる。

今日の日本の「漫画の世界」を、単なる娯楽だけではない、深みのある文化的水準にまで高め得たのは手塚治虫の数多い作品と、それらの作品から暗示と刺激をいっぱいに受けて成長していった後続のすぐれた漫画家の群れであることは、確かなことであり、これこそが彼の栄えある功績とたたえられてよいのだろう。

その延長線上に冒頭にも紹介した芸術性を追求する「アートアニメ」の近年の著しい飛躍が可能になってきているのだ。

一つの汚点

終戦直後に酔っぱらった米国駐留兵士からいわれのない暴力を受けた手塚治虫は、その強い記憶から、異民族間、異文化間の対立や抗争をよく主題にしてきたといわれる。しかし、『ジャングル大帝』で現れた「分厚い唇、攻撃的な印象」といった、黒人の描き方は問題視され、彼の死後の1990(平成2)年「黒人差別をなくす会」から糾弾を受けている。以降、差別表現の所載のある単行本には表現を弁明するただし書きが付されていることは明らかにしておきたい。

おわりに

その発想においても、描かれた絵においても、まさに「神」と称されるに値する活躍をみせた手塚治虫の生涯にただただ感服するばかりだ。彼のことばを二つ、紹介して締めくくりとしよう。

戦時中を振り返って「空襲に襲われて周囲が火と死体の山となったとき、絶望して、もうこの世界は終末だと思ったものです。だから戦争の終わった日、空襲の心配がなくなって、いっせいに町の灯がパッとついたとき、私は思わずバンザイをし、涙をこぼしました。これは事実です。心の底からうれしかった。平和の幸福を満喫し、生きていてよかったと思いました。これは、当時の日本人のほとんどの感慨だと思います。もう二度と、戦争なんか起こすまい、もう二度と、武器なんかもつまい、孫子(まごこ)の代までこの体験を伝えよう。あの日、あの時代、生き延びた人びとは、だれだってそういう感慨をもったものです。ことに家や家族を失い、また戦争孤児になった子どもたちは、とりわけそう誓ったはずです。それがいつの間にか風化し形骸化して、またもや政府が、きな臭い方向に向かおうとしている。子どもたちのために、当然おとながそれを阻止しなければならないと同時に、子ども自身がそれを拒否するような人間にはぐくんでやらねばならないと思うのです。人命だけでなく生命あるものすべてを戦争の破壊と悲惨から守るんだという信念を子どもに植えつける教育、そして子どもの文化はそのうえに成り立つものでなければならない。けっして反戦だの平和だのの政治的のみのお題目では、子どもはついてこない。率先して、生命の尊厳から教えてゆくという姿勢が大事なのではないでしょうか」と。

「宝塚市平和モニュメント」     手塚治虫記念館の前で、火の鳥は宇宙に存在するすべての命が大切にされることを願っています

そしてまた「僕は宝塚に住んでいたんですが、学校の帰り道にちょっと寂しい沼があって、そこを通って家に帰るんです。小学生とか中学生のころそこを通る夢をよく見ました。沼地の横で得体の知れないものがブルブルふるえながら僕をまっている。それをつかまえて自分の家に連れてくる。逃げ出すと困るから雨戸を閉めて、ふすまを閉めて絶対に出られないようにして、僕と物体が向かいあったところでたいてい夢がさめてしまう。その間も僕がそいつを見つけ、そいつが僕のところに寄ってきて、つかまえて家に帰るまでに、何だかわからないけどそいつがいつも変わるんです。(中略)だから女にもなるし、男にもなるし、化け物にもなる(中略)つまり、常に動いている楽しさみたいなものがある。動いているのが生きているのだという実感があるわけです。つまり、一つのアクティブな感じを受けるんです。で自分はどうかというと常にパッシブでそれを見て感じるとか受け入れるとかいう形で、それを見ているだけなんですが、相手は何かの形で次々に流動しているんです」と。

このあたりが、手塚治虫の創作の原点なのかもしれない。

(2020/08/19)