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自由は土佐の山間より 板垣退助 その1 |わたしの歴史人物探訪

生い立ち

乾(いぬい)退助(後の板垣退助)は、天保8(1837)年4月に土佐の高知城下に生まれました。父は土佐藩の御馬廻(おうままわり)の上士(じょうし)でした。先祖は遠く武田信玄の二十四将の一人、板垣駿河守信形(いたがき するがのかみ のぶかた)まで遡ります。信形の死後、遺児であった正信は遠州掛川に乾備後(いぬい びんご)を頼り乾家で育てられました。のちに乾の家系を継いで藩主の山内一豊に仕え、主君の転封に従って土佐に移りました。正信には子がなかったので、一豊の二男正行(まさゆき)を養子にもらい受け、板垣の血統は山内氏に移りました。

乾家は藩でも名門で、残された絵図を見ると、屋敷には大きな長屋門があり、周囲は石垣の白塀で囲まれ、庭には林もある立派な建物であったことがうかがわれます。退助はこの屋敷で、若様として育てられました。

一人息子の退助にとって、藩の家老格の娘であった母の幸からの愛情がもっとも深く、また厳しくもありました。子ども心に物を欲しがることをやめさせるため、菓子などは欲しがるだけ与え、余れば退助は友達や使用人に分け与えたりしたようです。このことは、物欲に恬淡(てんたん)とした退助の性格を形づくりました。

こんな話が伝わっています。冬の寒い日に、乳呑み児を抱いた女が門前に来て物乞いをしました。退助は姉の晴れ着を持ってきてその女に与えました。このことを知った姉が怒ると、退助はケロリとして言い返しました。「あの女が凍えずにすんだのじゃけえ、着物一枚くらい惜しくはないぜよ」。母の幸は手放しで褒めたと伝えられています。

板垣退助の銅像

この頃の退助の周りには、こんな人たちがいました。天保14(1843)年に、山内容堂/豊信(やまうち ようどう/とよしげ)は17才、武市瑞山/半平太(たけち すいざん/はんぺいた)は15才、坂本龍馬は9才、乾退助、谷干城(たに たてき)は7才、後藤象二郎、中岡慎太郎は6才などです。乾、後藤、谷は上士(じょうし)格で、武市、坂本、中岡らは郷士(ごうし)でした。

(上士、郷士について 土佐では上士は山内系の藩士、郷士は旧主の長宗我部家の家臣の系譜をひく藩士のことで、両者にはさまざまな格差が存在していた)

幕末の動乱の中で

嘉永6(1853)年、退助は18才のときに江戸勤番を申し付けられますが、その年ペリーが来航し、翌年には日米和親条約が結ばれるなど激動の年でした。安政3(1856)年に江戸勤番を解かれた退助が土佐に帰国すると、藩の参政で学者の吉田東洋がその才を認め東洋門下に入るよう勧めましたが、退助はこの一門は文弱の徒であるとして、入門を断りました。退助にとって、江戸での見聞はその心に少なからぬ影響を与え、文よりも武を重んじたのです。

慶応3(1867)年、土佐藩前藩主山内容堂の建白を受けて、徳川慶喜は朝廷に大政奉還を奏上しました。翌慶応4(1868)年1月、朝廷に出仕するため、大坂から京都へ入ろうとする慶喜に向け、入京を阻止せんとする薩摩兵からの射撃によって、鳥羽伏見の戦いが起こり、戊辰戦争が始まりました。山内容堂はこの戦さを「薩長と会桑の私闘」とみて中立を保っていましたが、伏見を守る土佐兵は幕府軍に火蓋を切ったのです。戦いは幕府軍に有利とみられていました。西郷隆盛の要請を受けた谷干城は、高知へと戻り、土佐藩庁でも出兵する隊を編成して 迅衝隊(じんしょうたい)と名付け、大隊司令に32才の乾退助を任命しました。高知城を後にした迅衝隊は、その月のうちに京都に入りました。朝廷では慶喜追討令が出され、有栖川宮熾仁(ありすがわのみや たるひと)親王が東征大総督に任じられ、東征軍は東海道・東山道・北陸道の三道に分かれて進軍しました。退助は、東山道先鋒総督府参謀に任じられ、土佐藩兵の司令官となりました。退助は、甲州に向かう前に、甲府に縁の深い祖先、板垣駿河守の名をとって板垣と姓を改めています。

板垣退助率いる迅衝隊は甲府で、近藤勇らの率いる甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)を撃破し、兵を東北道白河へと向けました。途中、板垣退助には日光に逸話が残されています。

日光に遺された逸話

慶応4(1868)年、大鳥圭介は、上野の彰義隊の残党やフランス人将校に教育された幕府伝習隊など2000の兵を率いて、宇都宮で敗れた後、日光山を本拠として今市を襲う形勢を固めていました。この大鳥軍の討伐に向かったのが、東山道先鋒総督府参謀の板垣退助でした。退助率いる迅衝隊600名は、日光進撃の命を受けていましたが、日光には江戸幕府を開いた徳川家康の霊廟として造営された東照宮や陽明門、眠り猫などの木彫像や神橋など非常に貴重な文化財が多く残されています。退助はそのような文化財が戦火によって焼失してしまうことを憂い、近くにある報恩山台林寺の宇都宮住職を呼び、告げたのです。

「あなたにお願いするのは他でもない。我われは日光進撃の命を受けています。敵が日光山に立てこもる限り、これを一挙に落とさなければなりません。しかしながら、私は日光廟に戦火が及ぶことは何としても避けたい。国の宝である日光の壮麗な建物を失いたくないのです。あなたから大鳥に説いていただけないか。あくまで日光に拠って戦うというのは東照宮(家康公)への不敬にあたるし、日光を出て今市で戦うよう勧告してください。そのためには、一時、進撃を控えてもよろしい。」

この板垣の言葉に動かされた宇都宮住職は、日光の本山へと向かい、そして大鳥ら旧幕府軍の将兵達は板垣の発した言葉に動かされ、最終的に日光山を下山することを承諾しました。これにより日光は戦火から救われたといわれています。神橋のほとりには、壮麗な文化財の保全を祈っているかのように、板垣退助の銅像が建てられています。

新政府からの下野

慶応4(1868)年3月11日、江戸城が無血開城され、徳川慶喜が水戸で謹慎すると、薩摩藩・長州藩を中心とした新政府軍の矛先は佐幕派の雄藩であった会津藩、松平容保(まつだいら かたもり)に向けられました。8月21日、二本松周辺まで北上していた土佐・薩摩を中心とした新政府軍は、母成峠(ぼなりとうげ)から会津盆地へ侵攻し、若松城に篭城した会津藩兵と旧幕府方残党勢力を撃退しました。この篭城戦のさなか、白虎隊の悲劇などが発生したのです。

筆者が過日、会津若松を訪れたとき、風にはためくたくさんののぼり旗には「戊辰150年」と記されており、他の地方の「維新150年」とは趣が異なっているように感じられました。150年を経た現在もなお、会津地方の人びとの心に意識するものが残されていることを思うと、そこには悲しみの情景が佇んでいるようでした。

明治2(1869)年、大名の版籍が奉還され、それまでの藩主は知藩事となりました。続いて明治4(1871)年、廃藩置県が断行され、大名の知藩事は免官されたのです。こうして太政大臣三条実美(さんじょう さねとみ)、右大臣外務卿岩倉具視(いわくら ともみ)の下に、薩長土肥の参議が中心となる明治新政府が成立しました。西郷隆盛、木戸孝允、板垣退助、大隈重信の4人です。同年11月には、岩倉遣欧使節らが条約改正の交渉のため、米欧に向けて出発することとなりました。留守を預かったのは、西郷、大隈、板垣の3人の参議でした。留守政府は、政策通の大隈重信を中心に、立て続けに新しい政策を実施しました。まず、新橋~横浜間に鉄道が開通しました。郵便制度、「邑(むら)ニ不学ノ戸ナク、家ニ不学ノ人ナカラシメン」とした学制、徴兵令、太陽暦の採用などが、次々と施行されたのです。この年には前後して、身分制度の撤廃が制度化されました。太政官令として布告されたこの法令には「穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス」とあり、板垣退助の提唱した「人民平均の理(ことわり)」にならったものとなりました。この解放令の発布によって、身分差別の法的な根拠はなくなり、その後の差別撤廃運動の拠り所となったのです。

しかし、明治6(1873)年、朝鮮に排日運動が起きると、これへの対処をめぐって、征韓論を主張する西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平とこれに反対する岩倉具視、大隈重信、大久保利通、伊藤博文、黒田清隆らが対立。西郷、板垣らの征韓論は受け入れられず、西郷に続いて板垣退助、副島種臣、桐野利秋らが一切の官職を辞し、新政府を去ることとなったのです。

明治7(1874)年、退助は後藤、副島らと「愛国公党」を結成。「人民の普遍的人権を確立しようとするのは天下の偉大な使命」という趣意で、党の目的である「民選議員設立」の建白書を政府左院に提出しました。広く国民に開かれる議会の開設こそ急務であるとしたのです。この建白書の内容は、英国人ジョン・ブラックの発行する新聞「日新真事誌」に発表されて、広く国民の知るところとなりました。この考えは次第に国民の間に浸透し、自由民権運動の機運が高まっていったのです。

この年の3月、退助は土佐に帰ります。西郷隆盛の鹿児島私学校のような、民衆や子弟を教育する学舎を郷里に建てたいと考えていたからです。こうして土佐の高知に、広く人材を養成し、人権と自由の確立を目指す機関として「立志社」が生まれました。立志社の設立には、のちに衆議院議員として活躍することとなる片岡健吉や林有造ら士族の多くが参加しました。立志社は、学校のほかに、士族救済のために産業を振興する商局を設置して物産の販売をしたり、法律研究所を開設して民衆の訴訟の代行をしたりしました。退助は、ここに日本の自由平等主義発祥地を夢見ていたのでしょうか。初期の塾生には、尾崎行雄、犬養毅、植木枝盛(うえき えもり)らの名前があります。この立志社の主旨は階級の平等、人民主権を柱としました。自由民権運動の萌芽です。現在の高知市帯屋町の中央公園には、立志社跡の石碑が建てられ、石碑には「自由は土佐の山間より出づ」と刻まれています。

(2021/05/26)