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自由は土佐の山間より 板垣退助 その2 |わたしの歴史人物探訪

自由は死せず

明治10(1877)年、立志社はその建白書で国会開設、地租軽減、条約改正という自由民権運動の三大綱領を初めて提起しました。明治13(1880)年には、国会開設請願運動、明治14(1881)年には自由党結党が行われ、その中心的役割を担いました。このころから、退助は東北地方をはじめ、全国に遊説に出かけます。翌明治15(1882)年の春、竹内綱ら腹心の自由党員と東海道の遊説の旅へと出ました。

静岡、浜松、名古屋を経て美濃路へと続く遊説はどこでも熱狂的な歓迎を受け、会場はいつも満員でした。岐阜では300人余の聴衆が集まり、退助は1時間半にわたる演説をしました。

割れんばかりの拍手に送られ、降壇して会場の外に出た退助に、「国賊!」と叫んで短刀を振りかざす男が迫ったのです。「何をするか!」と大喝して刺客に当て身をくらわした退助がその手で短刀の刃をつかんだところ、男が短刀を引いたため、退助は手に深い傷を負いました。退助は刺客をにらんで言いました。「我は死んでも、自由は永世不滅なるべき!」と。この言葉は自由民権運動を象徴するものとして、瞬く間に人びとの口を伝い、現代の私たちの知るところとなったのです。すなわち「板垣死すとも、自由は死せず」。

この年も夏になる頃、板垣退助の傷はすっかり治りました。一命をとりとめた退助は、後藤象二郎のすすめで、自由党員の反対を押し切り、ヨーロッパへと外遊に出かけました。諸外国の国情と政党を実際に学び、全国へと展開した自由民権の将来に役立てようと考えたのです。実際に、東北地方をはじめとする各地方に、彼の蒔いた自由民権の種が芽を吹き始めていたのです。

夢破れて

板垣退助は自由党結成当時、手弁当で東北のすみずみまで自由民権を説いて回りました。そのことが各地に自由民権の風を運んだのです。しかしながら、当時の民衆の生活は困難を極めていました。酷税や使役を課され、田畑を担保にしてそれらから逃れたものの、小作農に転落する農民が増加の一途をたどるような状況だったのです。さらに、自由民権運動の趨勢に危機感を覚えた政府は、官憲をして自由党員の捕縛を執行しました。そんな中、農民を中心とした民衆は立ち上がります。

退助が洋行に出た明治15(1882)年の11月、福島事件が、さらに翌明治16(1883)年の3月には新潟で高田事件が起こりました。これらの事件は、自由民権運動への弾圧であり、官憲のでっち上げた罪科と言えるものでした。しかしその後、各地に広がる自由民権の波は過激な実際行動になっていったのです。明治17(1884)年5月には群馬県で、同じ年の9月茨城県で、それぞれ民衆による武装蜂起が起きました。

さらに、「秩父郡では貧民は小麦のフスマか葛の根を食い、死馬死犬の肉を喰らっている(フスマとは小麦を製粉するときに除かれる皮の部分のこと)」と、東京日日新聞に書かれるほど生活に困窮した民衆が、「板垣さんの世直し」を合言葉に秩父困民党を立ち上げ、自由民権思想の激化事件として政府を震撼させたのです。

当時の自由民権運動には、これら困窮する民衆をまとめる力はありませんでした。板垣退助らが蒔いた自由民権の種はよもや思わぬ方向に毒のある花を咲かせたのです。洋行から帰国した板垣退助は、明治17(1884)年10月、大阪太融寺で開かれた自由党結成三周年記念大会の席で、自由党の解散と自身の高知での隠棲を宣言をすることとなりました。明治7(1887)年に土佐の高知で立志社を立ち上げてから10年。全国の党員は15万人になっていたといわれています。

その後

明治22(1889)年、大日本帝国憲法が発布されました。そして、翌明治23(1890)年には、立法府としての帝国議会が貴族院と衆議院によって開設されました。この年7月には、第1回総選挙が行われ、日本で最初の衆議院議員が誕生しました。当選した議員の中には、尾崎行雄、犬養毅、片岡健吉、林有造、植木枝盛、中江兆民らの他、足尾鉱毒事件で名をはせた田中正造やのちの早大総長高田早苗の名が見られました。

中でも大阪は、旧愛国公党から再興された愛国社の生まれた地でもあり、土佐の立志社出身の中江兆民は、居を高知から大阪へ移し、選挙民が大阪4区の渡辺村に兆民の土地を登記して立候補資格を整えました。とりわけ被差別の人びとが熱心に応援したと伝えられています。

残念ながら、板垣退助は明治20(1887)年に明治天皇から維新の功績を称えられて、爵位を授かっており、議員選挙には立つことができませんでした。

これには逸話が残されています。自由民権、四民平等を唱え、華族制度に反対してきた退助は、爵位を受けて華族の列に加わることはできない、と辞退する旨を奏上しました。これまで天皇から贈られる名誉な爵位を返上する人はいませんでしたし、鹿鳴館に象徴される上流階級の贅沢な姿に反感を抱いていた世論は、拍手喝さいでした。退助が富や名誉に恬淡(てんたん)として清貧に生きる人であることを褒め称えた新聞報道もありました。しかし、「朕は板垣の維新当時の功績は忘れておらぬ。これに報いなければ予の心は収まらぬ。」と三度(みたび)にわたる天皇からの授爵の言葉に、退助は参内して叙爵の請書を提出したのです。

これによって、自由民権の獅子であった板垣退助は伯爵となり、自由平等を渇望する民衆からは遠い存在となってしまったのです。

それでも、退助は明治29(1896)年に第二次伊藤博文内閣の内務大臣となり、明治31(1898)年6月には、第一次大隈重信内閣の内務大臣となるなど、庶民派の政治家として国民から圧倒的な支持を受けていました。

板垣退助は死後も民主政治の草分けとして人気が高く、第二次世界大戦後は50銭政府紙幣、日本銀行券100円紙幣にその肖像が用いられるなど、自由と平等を求めたその姿は広く私たちに愛される由縁と言えましょう。

高知市立自由民権記念館

高知城の大手門の内側には、まっすぐに天を指さす板垣退助の銅像が建てられています。路面電車「はりまや橋」電停から南へ行った「桟橋通4丁目」電停前に建つ「高知市立自由民権記念館」には、自由民権の趣意を後世に伝える数々の史料が展示され、「自由は土佐の山間より」の言葉が高知県のシンボルとなって、訪れた人々を迎えています。

(2021/06/29)