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混血孤児2000人の母 澤田美喜 その2 |わたしの歴史人物探訪

混血孤児の母となる
一家がニューヨークから帰国したのは1943(昭和18)年のことでした。太平洋戦争の戦火が日に日に激しくなり、食糧不足や梵鐘(ぼんしょう)の供出、学徒出陣など国民生活がいよいよ緊迫の度を加え始めたときでした。澤田家も例外ではありません。美喜は最愛の息子たちを戦場に送らねばならなかったのです。長男信一は学徒出陣、次男久雄は特攻隊へ、三男晃は海軍の司令部へ。そして、敗戦の年の1月、三男晃の戦死が伝えられました。「戦争はいけません。一番悪いことです」ガルシア夫人の言葉が美喜の胸に去来したことでしょう。

そして、終戦後の1947(昭和22)年、買い出しの商人などで混雑した列車に乗り込んだときのこと、闇物資摘発のために見回っていた警官の目に止まったのが、美喜のすぐ上の網棚に置かれた細長い風呂敷包みでした。「包みを開けろ」と警官は美喜に命じました。それは彼女のものではなかったのですが、美喜は命ぜられるままに包みを開きました。なんと風呂敷包みから出てきたのは、数枚の新聞紙にくるまれた混血児の赤ん坊の死体でした。警官と乗客の疑惑の目が美喜に注がれたとき、同乗していた一人の老人の証言で美喜への疑いは晴れたのですが、そのとき、彼女は心の奥深くに静かなそして確かな声を聞いたのです。「あなたは、たとえいっときでもこの子の母とされたのなら、なぜ日本国中のこうした子どもたちのために、その母となってやれないのか」このとき、美喜は45歳。混血孤児の養育に残る生涯を捧げる決心をした瞬間でした。

エリザベス・サンダース・ホーム
夫、廉三の理解を得た美喜は、実家に帰り、父に自分の計画を打ち明けました。さらに、大磯にある岩崎家の別荘を施設として使わせてほしい、と申し入れたのです。同じ話を聞いた知り合いの中には「なんて物好きな。日本と戦争をした、敵の国の子ですよ」という声が少なくありませんでした。しかし父久弥は、美喜から悲惨な孤児たちの話を聞くと、目に涙をいっぱい溜めて言いました。「世が世なら、大磯の家ぐらい寄付してやるのだが・・・」大磯の別荘はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の命令で、財産税のため政府に物納してしまっていたのです。

一度政府に物納した大磯の別荘を取り戻すためには、進駐軍トップに直談判するしかなく、美喜の活動は総司令部を訪ねることから始まりました。幾日も幾日も日参した甲斐あって、ようやく総司令部は、政府の決めた金額で美喜が大磯の別荘を買い戻すことに同意したのですが、その金額は約370万円。美喜は自分の持ち物でお金に換えられるものは、ことごとくお金に換えました。友人で彼女の考えに共鳴した人たちは、時計、貴金属、外交官夫人時代の外套(がいとう)や衣服、パリで集めた絵などを高い金額で買い取ってくれました。また、ニューヨークの教会のチャリティー活動で各地を回った友人たちも、励ましの手紙とお金を送ってくれたのでした。

そんなある日、美喜は英国大使館から呼び出しを受けました。占領下の東京で生涯を終えたエリザベス・サンダースという76歳の老婦人が、40年間の貯金のすべてを日本の社会福祉事業に寄付したいとの遺言を残したので、美喜のホームにそれが贈られるというのです。その額は170ドル(当時の6万2千円ほど)でした。美喜はホームに贈られた初めての寄付だったことに感謝し、エリザベス・サンダースというイギリス人女性の名を、そのままホームの名にしました。

エリザベス・サンダース・ホームの創立は、昭和23年2月1日。澤田美喜はこのとき46歳。理事長兼園長として最初の子ども二人を迎えたのです。

ホームの創立から9か月、その年の11月までに受け入れた孤児の数は30名を数えました。美喜は一人も拒むことなく、子どもを引き受けました。苦労したのは、ミルク集めでした。美喜の手元に残っていた宝石、衣類、調度品、美術品などがミルクやオムツに換えられていったのです。米軍キャンプも精力的に回りました。しかし、進駐軍にとって混血孤児の問題はなるべく触れてほしくない話でした。混血孤児を集めて孤児院とする美喜の活動を快く思っていない将校も少なくなかったのです。美喜は堂々と胸を張って、「あなた達が生ませた子ではないか。協力するのは当たり前だ」ときっぱり言い切る美喜の迫力に米軍の将校や兵士たちは圧倒されたのでした。

世間の風当たりも強かったようです。「敵国の兵隊の子を育てるのか」などと、ホームに怒鳴り込まれることはしょっちゅうでした。そんな彼女を支えたのは、子供たちの姿でした。くたくたになって夜遅く帰ってきても、赤ん坊たちの寝顔を見ると疲れが吹き飛んでしまいました。この子たちを見捨てるわけにはいかない、自分が彼ら彼女らの母にならなければ、と美喜は気持ちを奮い立たせたのでした。

エリザベス・サンダース・ホーム玄関

1953(昭和28)年、ホームは社会福祉法人として正式に認可され、孤児たちが学齢期を迎えたこの年の4月、戦死した晃の洗礼名を冠した学校法人聖ステパノ学園小学校が創立されました。混血の孤児を迎えてくれる小学校がどこにもなかったのです。
ホーム内の施設も次第に充実し、1959(昭和34)年には聖ステパノ学園中学校が開校しました。美喜は大磯の地にホームの建物が少しずつ増えていくのを見て、イギリスで見た「ドクター・バナードス・ホーム」を思い浮かべていたのでしょうか。

自由の大地を求めて
1952(昭和27)年から、美喜はたびたび渡米します。基金集めのための講演活動がその目的でした。アメリカでは、多くの教会やロータリークラブ、ライオンズクラブなどの人たちが温かく迎えてくれ、美喜は講演やラジオやテレビのキャンペーンなど、忙しく飛び回りました。ホームの協力者が少しずつ増えていき、美喜は、これらの人びとに支えられながら、混血児がアメリカに入国できる一つの運動を始めました。あちこちで子どもがほしいと願う多くの夫婦の話を聞く機会を得たからです。美喜は、子どもたちがこのような家庭に引き取られるような「養子縁組」制度を作ろう、と動き出します。

美喜の幾度目かのアメリカ訪問のとき、「移民法」という法律がつくられました。養子希望者が住む州の議員が「養子縁組」の願書を米議会に提出することで、子どもが欲しい人なら誰でも混血児を養子にすることができるという法律でした。こうして「エリザベス・サンダース・ホーム」の多くの子どもたちは父親の国で暮らすことができるようになったのです。

しかし、日本はさることながら、アメリカにも人種差別はあります。そこで美喜は、愛する子どもたちが本当に幸せに自分たちの人生を切り拓いていける、差別のない国を探すことにしました。

美喜が結婚して間もなくアルゼンチンにいたとき、父がブラジルに広い土地を買い、農場を作ったことがありました。東山農場として開拓されたその農場のことを思い出しながら、美喜はブラジル中の日本人入植地を見て回りました。1954(昭和29)年の春のこと、トメアスという広大な日本人の入植地を訪れました。美喜は自伝にこう書いています。「ジャングルを日本人の手で50年前から開拓し、立派な道路も、農業組合もあり、飛行場近くの十字路には高い塔のある教会もある。そして赤道直下の太陽に光る屋上の十字架を見たとき、ようやく求めている子供たちの安住の地を見つけられる希望がわいた」と。

こうしてブラジルの新天地に「エリザベス・サンダース・ホーム」の新しいステージ「聖ステパノ農場」がその第一歩を踏み出したのでした。

エピローグ

澤田美喜さん

占領下の日本には、日米の混血孤児が約5,000人いたと言われています。そのうち「エリザベス・サンダース・ホーム」で育った子どもたちは約2,000人。澤田美喜が仲立ちをして海外に養子に送った子どもは500人を越えました。

美喜を知る人たちの中で少なくない人が、彼女は決して理想的な教育者でも、慈善家でも、福祉活動家でもなかったと言います。感情の起伏が激しく、怒りをあらわにすることもあったからです。しかし、美喜に激しく叱られた子ほど、美喜の死を心の底から嘆き、悲嘆にくれていました。彼らは異口同音に言います。「本気で怒ってくれたから。本気で怒るのは本当の親だけじゃないですか」と。

エリザベス・サンダース・ホームを巣立ったたくさんの子どもたちが、海を渡り、各国に移住してその地で良き市民として、新しい生活を始めていきました。晩年の美喜は各国各地の卒園生の家庭を訪ね、混血孤児の子、否、すなわち自分の「孫」に会うことを最大の楽しみにしていたと言われています。

(写真は社会福祉法人エリザベス・サンダース・ホームさまのご了解をいただき掲載させていただきました)

(2021/12/02)