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北の海から日本を見た男 高田屋嘉兵衛(その2) |わたしの歴史人物探訪

ロシア船の来航

18世紀初頭、ロシアの毛皮商人たちは、その商業的価値から「柔らかい金」と呼ばれたクロテンなどの毛皮獣を求めてシベリア大陸を東進していました。そして千島列島からアラスカへと渡り、さらにアリューシャン列島では新たな商品となるラッコを発見しました。千島列島を南下し、千島海域での彼らの活動がさかんになるにつれ、ロシアは新たな物資補給地を必要とするようになっていました。ロシアはレザノフを使者として日本に交易を求めてきましたが、鎖国を是とする江戸幕府はこれを拒絶します。

こうした情勢を背景にして、1806(文化3)年9月、レザノフの部下でロシア軍人のフヴォストフらが、唐太(からふと)の運上屋(うんじょうや。蝦夷地内に設けられていた商場(あきないば)・会所といった拠点のような場所)を攻撃し、酒や米を奪い、建物や船に火を放つという事件が起きていました。

この事件により、幕府は東北諸藩に出兵を命じ、蝦夷地沿岸は厳戒態勢が敷かれます。

 

ゴローニン事件

1811(文化8)年5月には、ロシア船ディアナ号が、オホーツク艦隊への物資補給と北太平洋海域での地理調査を目的として千島列島を南下、6月4日、ゴローニン艦長を含む8名のロシア人がクナシリ島で水と食料の補給を得るため、上陸して交渉しようとしました。

幕府警備隊と接触した彼らは陣屋に行くように要請され、松前藩の国後(くなしり)陣屋に向かいました。しかし話し合いはうまく進まず、交渉を中断して船に戻ろうとしたところを彼らは捕縛され、箱館そして松前へと護送された後、投獄されてしまいました。

ディアナ号副艦長のリコルドはゴローニンを奪還しようと艦から砲撃を始めましたが、このまま攻撃を続けても事態が悪化するだけと悟り、いったんオホーツクへ撤退することにしました。

しかし、ロシア史の中での1812(文化9)年はナポレオン1世のロシア侵攻で情勢が緊迫していた時期であり、ゴローニン救出のための遠征隊が派遣されることはなく、その年の8月にリコルドはディアナ号を駆って再びクナシリ島に来航します。

リコルドは交渉を試みますが日本側はこれを拒絶、そのため松前で幽囚されているゴローニンたちの情報を得ようと、たまたまクナシリ沖を航海していた日本船「観世丸」を拿捕します。その船には嘉兵衛が船主として乗船しており、「観世丸」の水夫ら5人とともに、今度は嘉兵衛たちが詳細を聞き出すためにカムチャッカに連行されてしまったのです。嘉兵衛、44歳の時の出来事です。

嘉兵衛とリコルド

高田屋嘉兵衛とリコルドの話し合い(高田屋顕彰館にて撮影)

連行されたペトロパブロフスクでは、嘉兵衛たちは宿舎でリコルドと同居することになり、嘉兵衛は捕らわれの身ではありましたが、ゴローニンの解放と自分たちの帰国のために誠意をもってリコルドと話し合いました。そうするうちに当初のわだかまりやお互いの誤解も解けていきました。

連行された者の中に根室のアイヌ人が一人いましたが、翌年、二人の水夫とこのアイヌ人が病死してしまいます。キリスト教の葬式を行おうとするロシア側の申し出を断って、嘉兵衛自らが仏教、アイヌ、それぞれの様式で3人の葬式を行ったという話が残されています。

嘉兵衛は、幕府は1806(文化3)年のフヴォストロフの蛮行から、ロシアに対して厳しい姿勢を持ち続けているが、ロシア政府が関与したものでない、ということを証明して謝罪すれば、事件は解決すると考えていました。

実際に幕府も、ロシアとの紛争が拡大し、大きな武力衝突に発展することは避けたい、と考えるようになっていました。フヴォストロフの襲撃が、ロシア政府の命令に基づくものではないことを公的に証明すれば、ゴローニンを釈放する、という文書を作成して、ロシア語への翻訳をゴローニンにさせていました。それはまさに嘉兵衛の考えと一致したものでした。

リコルドは嘉兵衛の言を入れ、自らの官職であるカムチャッカ長官名義で文書を書き上げ、1813(文化10)年5月、嘉兵衛たちとともにクナシリ島に向かいます。

まず、国後陣屋で嘉兵衛が今までの経緯を説明し、交渉のきっかけを作りますが、リコルドが日本側へ提出した釈明書は、嘉兵衛を捕らえた当人のリコルドが作成したもの、という理由から幕府は採用しません。

リコルドは直ちにオホーツクへ引き返し、今度はイルクーツク民生長官とオホーツク港務長官の書簡を携え、同年9月末、箱館に入港します。箱館では嘉兵衛が奔走して会談の段取りを整えていました。

そしてリコルドが両長官の書簡を提出し、松前奉行はロシア側の釈明を受け入れ、こうして2年3か月におよぶゴローニン事件は平和裡に解決したのです。

 

日露友好の像

日露友好の像(高田屋嘉兵衛公園にて撮影)

さいごに
嘉兵衛たちが見送る中、ディアナ号が箱館を出港し、ゴローニンとリコルドは日本の地を離れていきました。嘉兵衛は国際紛争の解決に多大な貢献をしたとはいえ、監視のために軟禁されます。翌年の3月には無罪となり、5月には幕府からゴローニン事件解決の功績として金5両の褒美を下賜されますが、体調がすぐれず、また、嘉兵衛の経験したことは幕府の最大の関心事であり、兵庫に一時帰還した時も大坂町奉行所などから呼び出され、尋問を受けています。

1818(文政元)年、嘉兵衛は50歳で弟たちに店をゆずり、その年の9月頃、養生のため故郷の淡路島にもどりました。ふるさとにもどった後も、道路や橋をつくったり、灌漑用水の工事を行ったり、湊の整備をしたり、地元の発展のために努力をしています。

そして1827(文政10)年4月、生地の都志本村で嘉兵衛は59年の生涯を閉じました。

弟たちにゆずった高田屋は1821(文政4)年に松前藩御用商人となり、1824(文政7)年には本店を兵庫から箱館に移すなど、事業は隆盛を見せていましたが、ロシアとの密貿易の疑いをかけられ、幕府からの嫌疑があいつぎ、その後没落していきます。

淡路島にある兵庫県洲本市のウェルネスパーク五色・高田屋嘉兵衛公園には、嘉兵衛の没後170年と日露国交回復40周年を記念して、ゴローニンと嘉兵衛が並び立つ「日露友好の像」が建てられました。

ゴローニンは日本での出来事を『日本幽囚記』として著し、リコルドが嘉兵衛との交渉経過を記録した『対日折衝記』はその付録としてつけられています。嘉兵衛を評して「日本にはあらゆる意味で人間という崇高な名で呼ぶにふさわしい人物がいる」と称え、そこには彼の肖像画も記載されています。

この本はベストセラーになり、これを読んでぜひ嘉兵衛に会いたいと日本にやってきたのがニコライというロシア青年でした。嘉兵衛はすでにこの世にはいませんでしたが、ニコライは日露戦争の間にも日本に住み続け、日本で一生を終えました。東京神田にある「ニコライ堂」は、この日本の聖ニコライに由来しています。

(取材協力 高田屋顕彰館)

高田屋顕彰館

高田屋顕彰館・歴史文化資料館【菜の花ホール】〒656-1301兵庫県洲本市五色町都志1087
高田屋嘉兵衛公園内
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高田屋嘉兵衛肖像

リコルド著『対日折衝記』の高田屋嘉兵衛肖像(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』高田屋嘉兵衛より)

(2022/12/13)